ハートフルシンガーの今と昔
ジャズシンガー細川綾子 さん 2016年5月20日

若くしてジャズに目覚めたきっかけは父

子どもの頃、父が戦前から戦後にかけて、西洋のレコードを内緒で持っていてよく聴いていた影響がとてもあったと思います。子供の歌というのが退屈で好きじゃなかった、童謡がね。今でこそいいなと思うけど。アメリカの音楽というとすごくかっこよかったんです。AFN(日本に駐在している兵隊向けのラジオ放送)でよく流れていたの。もともと大人の歌が好きで、つまんないと一人で歌っていました(笑)。

出会いに導かれた音楽活動

一番初めにサンフランシスコに来たのは22歳の時。横須賀で海軍兵だった最初の旦那との結婚がきっかけでした。15、6の時から兵隊さんの前で歌っていて、そこで出会った彼と家族の大反対を押し切って結婚して、旦那が勤務することになったアラメダの基地に一緒に来ました。
ジャズ評論家の瀬川昌久さんに「SF行くんならナイトクラブ開ける人がいるから」って紹介されたのがフランク・カワカミさんという人で、彼が開いた「銀座ウエスト」というお店で歌いだしました。それから1年くらい経ったころかな?フランクさんに「ジャズの父」と言われているアール"Fatha"ハインズを紹介されたのは。私その時アールの事知らなくて、「だーれ?」なんて言っちゃって(笑)。その人がジャズクラブを開けるから歌手を探してる、綾子にどうだ?って言われて歌いだしました。その後ツアーも初めて、Las Vegasとかアメリカ中で歌う機会をもらいました。

一番苦労したのは32歳くらいの厄年のとき。歌がやりたくて最初の旦那と別れた頃なんだけど仕事もなかなかなくて。昼は朝6時に起きてLAの銀行で働いて、それだけじゃ食べていけないから夜は午前2時まで舞台に立つ日々を3年くらい過ごしていました。そんな矢先、日本にいた時から私の歌を覚えていてくれた人がいて、ジャズ専門のレコード会社Three Blind Miceの社長を紹介してくれました。「細川さんが今度日本帰ってくることがあったらスタジオ抑えておきますよ」って言われて、レコードを作ることになって。せっかく何十年と歌ってきたのに何も形に残らないのが嫌だったから、待望の一枚だった。人生って分からないものです。私は60年くらい歌ってきたけれど、私の歌を認めてくれる人達がいたから続けられました。今もそう。そういった支えがなければ無理だったわ。

大切なのは続けること

自分で誇りに思えるのは、一つの仕事を引き受けるとずっと続けること。10年とか、20年とか。奈良のスイングフェスティバルも15年続けてきました。
奈良の重度障害者の人達のチャリティコンサートをやってきているんだけど、一回、さをり織りのバッグをもらってすごく使い心地がよかったんだけど、ある時それが盗まれちゃって。その次の年のコンサートでその話をしたら、障害者の子供たちが自分たちで作った大きなカバンをくれたの。で、何かお返しができないかなと思って、私カラオケセット持ってたから、「歌ってもいいですか?」って言ったら、毎年歌うようになって。それを聞いた他のミュージシャン達もやりたいっていうから、一緒にやることになって。最初は教室みたいな所でやってたんだけどだんだん大きくなって。15年続けたのよ。やる時には誠心誠意やるようにしています。分かる人にはわかると思うから。

細川綾子

1952年生まれ。ジャズヴォーカリスト。14歳で浜口庫乃助氏に師事し、在日米軍キャンプでプロ歌手として活動。56年にコロムビア・レコードから「チェリー・ピンク・マンボ」でデビュー。61年に渡米、サンフランシスコベイエリアを中心に様々なステージに立つ。60年代後半、アメリカのバンド、アール・ハインズ・グループの専属歌手に参加。以後アメリカ、日本、ヨーロッパ、中近東、南米等、世界的に活動を展開。77年に「ミスター・ワンダフル」などをリリース。01年「Little Things Mean A Lot」をリリース。