高橋 和利さん / iPS細胞誕生の立役者

面白い発見は予想外の実験結果の中にこそ潜んでいる

日本のメディアを、連日のように賑わせるiPS細胞研究。iPS細胞は、血液や皮膚の細胞から作ることが出来て、様々な臓器や組織の細胞になることができる。失われた臓器などの機能を修復する「再生医療」や、薬の候補を探し出す「創薬」への応用が期待されている。生命科学者である高橋和利氏は、世界で初めて実際にその手でiPS細胞を生み出した人物だ。2012年にノーベル医学・生理学賞を受賞した山中伸弥・京都大学教授の一番弟子で、山中氏をして、「高橋君の存在なくしては、iPS細胞の誕生は大幅に遅れたか、アメリカに先を越されていただろう」と言わしめる。高橋氏は、2015年に研究拠点を京都大学iPS細胞研究所からカリフォルニア大学サンフランシスコ校の関連機関であるグラッドストーン研究所に移し、現在は新たな研究テーマに着手している。そんな高橋氏に、日米の研究環境の違いや、生命科学者として成功する秘訣についてお話を伺った。

生命科学者の道を選んだ きっかけは何ですか?

子供の頃、会社勤めをしていた父から振る舞い等について「もっときちんとしろ」ということをよく言われてたんです。僕の為に言ってくれていたのですが、当時の僕にはそれがうるさく聞こえて。そこから少し飛躍して、サラリーマンにはなりたくないなぁというのが漠然とあったんです。あとは、中学生の頃から理系科目が得意だったこともあります。

山中伸弥氏との出会い ~ 大学院時代 ~

大学院に入学した当時、山中先生はまだ研究室を立ち上げたばかりでした。実は、大学時代の恩師には「一流のラボで修行しろ」と山中研に入ることを反対されたんです。ただ、当時有名な先生の研究紹介を聞いた時にすごく複雑で意味が分からなかったのに対し、山中先生の研究室紹介はすごく分かり易く、僕が唯一理解出来る話だったんですよ。山中先生のプレゼンスキルの凄さは、後から分かることなんですけど。山中先生の話を聞いて「ここしかない!」と思って希望したのがきっかけです。 

研究のモチベーションは 何ですか?

大学院生時代は、とにかく皆が驚くようなインパクトのある論文が書きたい!大きな仕事がしたい!っていう気持ちでしたね。大学院生時代に僕が筆頭著者で出した論文と、同じ山中研にいた助手の先生の論文が、1日違いでどちらも結構良い雑誌に掲載されたんです。その論文が出た時はすごく嬉しかったんです。ただ、論文って出した後、他人の論文に参考文献として引用されていくんですよね。その引用のされ方が、僕の論文も時々は引用されるんですけど、助手の先生の論文はすごい勢いで引用されていって。最終的には、その先生の発見が、僕らが研究している幹細胞研究の分野を変えるような影響力のある論文になったんですね。「そういうことか。」ってその時初めて思ったんですよ。出した論文が多くの人に読まれて、場合によっては他人の研究に影響を与えるということが、こんなにすごいことなんだってことを目の当たりにしたんですよね。それを見て、僕も人に影響を与えるようなインパクトのある論文をいつか書きたい!って思ったんです。 

そいういう意味では、iPS細胞の論文によって夢は叶ったということですよね?

幸運にもかなり早い時期に叶ったんですよね。ただ、叶ってみると「想像していたのとはちょっと違うな」という感覚で。iPS細胞の論文が出た時に「やった!」と思った気持ちは、大学院生時代に論文を出した時と同じだったんですよ。その後、時間が経つに連れてiPS細胞の論文はどんどん引用されていくし、皆がiPS細胞を作るようになった。でも、それについてはあまり思うところはなかったんですよね。感動も特にないし。助手の先生の論文が出た後は他人の論文にも関わらず、どれくらい引用されているのか、僕は結構意識して見ていたんですよ。だけど今、自分のiPS細胞の論文が何回引用されているかって僕は知らないし、あまり興味も湧かないんですよ。そこは不思議。ただ、学生の時の僕と今の僕は少し違うかもしれないから、何がそうさせているのかは分からないんですけど。

大発見も、論文を出したら次の事に興味が移る

結局、論文を出すと次の事に興味が移るんですよね。ちょうどいまヒトiPS細胞が出来て10周年位の節目で、当時の事をよく聞かれるんです。だけどよく覚えてないから10年前を語るっていうインタビューはほとんどお断りしている状況です。それくらい、もう人生の一番の思い出という感じでもないし、「iPS細胞を初めて見た時どんな気持ちでしたか?」「その感動はどんなものでしたか?」と聞かれても、あんまり覚えていなくて。今は僕の中では、その時の喜びよりも先週うまくいった実験の喜びの方が大きい。そういうもんなんだなぁと思って。 

過去の栄光には全然興味が湧かないものなのでしょうか?

引退でもすれば、また違うんだと思うんですけど、ずっとまだ現役でやってるし、これからもやりたいじゃないですか。そうなると、10年前の事をずっと言ってるのはちょっとダサいなと。いうのはありますね。 

思い通りのデータが出ないことが続くと、焦ったりモチベーションが保てなくなることもあると聞きました。そういう時期を乗り越えるコツは何ですか?

自分の思い通りに実験が進んでいる場合は、仮にデータが揃ったとしても大した論文にはならないと僕は思ってるんですね。大抵僕らくらいが頭のなかで思い描いたストーリーというのは、他の人も思いつくようなことなんですよ。だから、そういう論文を出しても、「そらそうやろ」っていう印象の論文になってしまうんですよ。それの何が面白いんだ、そんなの分かってるよっていう感じで。だけど、自分の思い通りじゃない結果が出た時に、それをゴミだと思わずに大事にして育てていくと、凡人が考えたのとは違うストーリーが生まれる可能性があるんです。これはもしかしたら、「え、そんなの予想もしなかった!」ていう大きなインパクトを持って迎えられるかもしれないんですよね。そこが、やっぱり生命科学の面白い所だと僕は思ってるんです。だから、思い通りの結果が出ないということは、もしかしたら、自分はすごい大発見に向かってるんじゃないかっていう気持ちでいれば、ある程度は耐えられる(笑) 

生命科学者に求められる 資質とは?

生命科学は、相手が生き物なので想定外の結果が必ず出る学問だと思うんです。そして、その中にこそ重要な真実が含まれている学問だと思うので、自分が考えた理論通りのことじゃなくて、予想外の結果に対応出来る柔軟さが求められると思う。そこを楽しめないと、生命科学者としてやっていくのは辛いですよね。 

研究拠点を日本から アメリカに移した理由は?

iPS細胞が出来たのをきっかけに、周りの環境がダイナミックに変わったんですよね。iPS細胞に特化した研究所が出来て、山中先生も一研究室の教授だった人が所長になり。そして、僕も自分の研究グループを持つようになりマネージメント業務が増えたんです。実験は技術員さんや学生さんに指示をして、僕は研究以外の仕事が増えてきました。そういう時間の中で、自分の手で実験できないことにフラストレーションを感じるようになりました。もちろん、他のメンバーは学生時代の僕みたいに、研究・実験オンリーの生活を送っていたし、僕は彼らに実験の指示を出して研究グループとしてはうまく回っていたんです。ただ、もう、僕があまりにも自分で実験することが好きすぎるがために、そこがモヤモヤした感じだったんですよ。書類を代わりに書いてくれる人がいれば、僕も実験出来るのになぁとか。そういう時期を過ごしていた時に、山中先生から「アメリカ行かない?」という話をもらって、行くことに決めたんです。 

日米の研究環境の 違いについて教えて下さい

グラッドストーンが特別なのか、ベイエリア全体がそうなのかは分からないんですけど、すごい頭の良い人が多いんですよね。皆ユニークなアイデアを持っていて、それをディスカッションの場で披露して、アイデアを戦わせるのが好きな人がすごく多い。日本はある程度証拠が得られるまで口外しない人が多い気がするんですよ。でも、アメリカはアイデアの段階でどんどん言うから、共同研究がうまく進むんだと思います。日本はその点、ちょっと秘密主義的なところがあるので、共同研究がここほどたくさん生まれないというか。多分、他人にアイデアを話しても、取られる危険性はあっても良いことは何もないっていう発想もあるのかもしれません。あとは、アメリカと違って黙ってる奴はアホで、言ったもん勝ちみたいな文化ではないことも大きいと思うんですよね。例えば、セミナーでもこっちは皆すごい積極的に質問しますよね。発表の途中で演者の話を止めてでも質問する人が多いけど、日本はそこまでしない人の方が多い。ただそれは、コラボレーションという意味では良い面もあると思うんですけど、アイデアだけで終わる人も多いなという印象ですね。

自分の描いたストーリー通りの論文を出したい人が多いアメリカ
あとは、こっちでは予想外の結果が出た時に自分の論理は間違っていたと言って、信じられないくらい落胆するケースが結構ある。複数の可能性を並べて、どれが正しいかを検証するのではなく、自分で綺麗なストーリーを考えてそれを証明していくという形を取りたがる人が、日本より多いような気がしますね。日本にいた時は、なんでアメリカはあんなに綺麗なストーリーの論文が一杯出るんだという風に思っていました。、おそらく、世界中から集った優秀な研究者が自分のアイデアを具現化しようとするので、、結果としてインパクトのある論文が出やすいっていうことなんじゃないかなと思います。

憧れの研究者はいますか?

1600年代の科学者で、ロバート・フックという人がいて。その人は、自分で複式顕微鏡を設計して世界で初めてワインコルクの切片を観察し、小さな部屋が多数あるのを発見してその小部屋をCellと名付けたんです。僕のこの18年間の研究生活って、ほぼ細胞に始まり細胞に終わる。だから初めて細胞を見た人は僕の中では伝説の人で。でも、結局彼が見たのは既に死んで乾燥した細胞で、彼が実際に観察した小さい部屋は細胞ではなくて、植物の細胞壁の跡を見ただけで、実際に生きた細胞を見たことがないらしいんですよ。だから、ロバート・フックにあって、iPS細胞を見てもらったり、今の最先端の顕微鏡で生きてる細胞を見てもらって、どんなこと言うのか聞いてみたいっていうのはありますね。

世界をあっと驚かせ、ノーベル賞を受賞した革新的な技術を開発した高橋氏も、素顔は優しい一児のパパ。アメリカに来て働き方も変わり、家族と過ごす時間を十分持てるようになった今、子供と一緒に遊ぶ時間が本当に楽しいと笑顔で語ってくれた。

高橋和利


サンフランシスコにあるグラッドストーン研究所在籍の生命科学者。1977年生まれ。同志社大学工学部、奈良先端科学技術大学院大学バイオサイエンス研究科卒。2012年にノーベル医学・生理学賞を受賞した山中伸弥京都大学教授が、研究室を立ち上げた当初から同氏の研究室に在籍し、iPS細胞作製方法の開発において絶大な貢献を果たした。山中氏が世界で初めてiPS細胞の作製に成功したことを報告した論文の筆頭著者。京都大学iPS細胞研究所で主任研究者として勤めたのち、2015年より現研究所へ移籍。