音楽界の変わり者 エリック・サティ

こんにちは。サンノゼピアノ教室の井出亜里です。
 音楽家は変わり者。掃除が苦手で約80回も引っ越しをしたベートーヴェン、お金はあるのに浮浪者に間違われる程のボロを着ていたブラームス。
 そうです。大音楽家は皆変人。しかし今回ご紹介するのはその音楽界すら「変わり者」と呼ぶキング・オブ・変人、エリック・サティです。

 サティは1866年5月17日にフランス、ノルマンディーの港町で生まれました。6歳の時に母が亡くなったため、弟と共に祖父母に預けられます。オルガン目当てに自ら教会へ通う孫を見て、祖父はオルガンを習わせることにしました。
 12歳の時、祖母が他界。パリにいた父親のもとに戻ります。13歳でパリ音楽院に入学。ここで7年間、音楽を学ぶのですが、教師陣から「最も怠惰な生徒」と酷評されました。サティも「退屈すぎる」と20歳の時に自主退学。
 21歳、酒場でピアニストとして働き始めます。そのころ作曲されたのが代表作『ジムノペディ』。名前は知らずとも誰もが「聴いたことある!」と言う曲です。この作曲家の伝説を早速見ていきましょう。

食べる物は白限定

 サティによれば、食べる物は卵の白身、砂糖、骨の粉末、肉の脂身、仔牛、塩、ココナツ、鶏肉、かびたフルーツ、米、かぶ、白いプリン、パン、白いチーズ、コットンサラダ、皮を除いた白身魚…。白に拘る食卓です。

半年間に300通

 26歳の時の恋人、シュザンヌ・ヴァラドン(当時28歳)。ロートレックやルノワールのモデル兼画家。息子ユトリロも画家になりました。半年の交際期間にサティが彼女に書いた手紙は300通。短く激しい恋愛の後、絶交。以来、生涯女性と関わりを持ちませんでした。

宗教興してグルになる

 「薔薇十字教団」という神秘主義団のメンバー兼作曲家だったサティ。ところが創始者と喧嘩して、独自の宗教を立ち上げます。その名は「導き手イエスの芸術首都教会」。自宅(兼教会)扉には「旋律、売ります」の看板を掲げ、主な活動はライバル作曲家の作品をこき下ろすこと。会員はサティ一人だけでした。

金づち隠してパリを行く

 30代になると、紳士の身なりで作曲活動。自宅から職場まで片道10㎞。毎日の歩行距離は実に20㎞。酒場でピアノを弾く以外はカフェを転々として作曲。その理由は自分の部屋に電気も水道もなかったから。常時携帯するのは傘とコートの下に隠した護身用の金づち。用心深いのです。

静かに聴いたら怒られる

 50代で『家具の音楽』を発表。意識を向けない音楽。生活の邪魔にならず、日常に溶け込むよう意図された曲でした。お披露目会場はパリの画廊。注意書きには「音楽が存在しないかのように過ごしてください」。ところが音楽が流れると、会場は静寂に包まれます。怒ったサティは「だから聴くんじゃない!喋るんだ!」と叫んで会場内を駆け回る。凍り付く来館者。絶叫し疾走する作曲家。淡々と同じ旋律を繰り返す演奏家。阿鼻叫喚。しかしこれが後のバックミュージックや環境音楽の元になったと言われています。

曲のタイトル摩訶不思議

 『犬のためのぶよぶよとした前奏曲』『いつも片目を開けて眠るよく肥った猿の王様を目覚めさせる為のファンファーレ』『梨の形をした3つの小品』…。犬はピアノ独奏曲、猿はトランペット二重奏曲、梨はピアノ連弾曲です。

 友人の作曲家ドビュッシーに「もっと形式を大事にした曲を作ってみては」と言われて作曲したのが『梨の形をした3つの小品』。フランス語で梨は間抜けという意味もあるそうです。「形式ばって書いてやったぞ、この間抜け」という皮肉なのでしょうか。しかしその後、再び音楽学校に入り直し、作曲技法を真面目に学び、最優秀で卒業。素直な一面です。

御開帳!27年開かずの間

 奇想天外な作風や、自由な生き方で晩年は若手音楽家から注目されていきました。1925年、肝硬変により59歳で死亡。弟と友人達が、27年間サティ以外誰も入ったことのない彼の部屋を片付けに行きます。彼らの目に入ったのは約100本の傘、床を埋め尽くす大量のカード、そして2段ベッドさながらに積み上げられた2台のグランドピアノ。上の1台の中身は空っぽで、ぎっしりと未開封の手紙が詰まっていました。あまりの異様さに皆息を飲んだとか。

 音楽界においてさえ「変わり者」と言われたサティ。しかしバックミュージックを考案し、今も尚愛される作品を残したところは、卓越した音楽家と言えるのではないでしょうか。