こんにちは。サンノゼピアノ教室の井出亜里です。
“イケメン”という言葉が生まれる前、筆者が高校生の頃、それに代わる言葉は“超カッコいい”でした。年配の人、例えば祖母は“二枚目”と言っていました。そして曾祖母は外国映画(日本語吹き替え)を見て「近頃のメリケンさんは皆二枚目だ。その上、まるで日本人のように日本語が上手い」と感嘆の声をもらす。一同、何をどこから指摘すべきかわからず、口をつぐんでおりました。
さて、今月生まれの音楽家はそんな昔のアメリカ映画に出てきそうな二枚目、ジョージ・ガーシュウィンです。
ピアノがあったら離れない
ガーシュウィンは1898年9月26日にニューヨークのブルックリンで生まれました。両親はユダヤ系ロシア人移民で貧しい家庭。ジョージは四人兄弟の次男で、兄弟や下町の友達と喧嘩やいたずらをする腕白でした。
せめて情操教育を、と思った母はボロボロのピアノを譲り受けてきます。長男アイラに弾かせるつもりだったのに、全く興味を示さない。一方、次男ジョージは夢中です。ピアノから離れない。もうどうにも止まらない。父はひっ迫した家計から絞り出すようにして、12歳の彼をピアノレッスンに行かせてくれたのです。
アイラとジョージの人気デュオ
15歳の時に、通っていた商業学校を退学。ラグタイム(ジャズのルーツの一つ)に夢中でした。この頃、楽譜出版社のピアニストとして働き始めます。楽譜を買いにきたお客に、曲の実演をする仕事なのですが、日がな一日、自作自演会。店主に見つかり辞職。
18歳の時に初めて作曲が売れて以来、流行歌やレヴューショウ(現在のミュージカルの原型)の挿入歌を主に作曲していきます。1919年、21歳でラグタイムを意識した『スワニー』を作曲。“アメリカ民謡の父”スティーヴン・フォスター同様、ジョージも黒人音楽に陶酔していました。フォスターが1851年に作曲した『スワニー河』の一節をチラリと入れたこの曲が大ヒット。当時最高のポピュラーソング作曲家になったのです。翌年、アイラが作詞、ジョージが作曲の兄弟デュオが誕生しました。
1924年、26歳でジャズとクラシックの融合を試みた『ラプソディ・イン・ブルー』でお堅いクラシック界へ殴り込み。これが大絶賛を博しました。この初演の成功により、ジョージはクラシック界でも名を馳せたのです。
私を弟子にしてください
今や現代音楽作曲家としても確固たる地位を築いた彼には、一つの心残りがありました。それは、クラシック音楽の本格的な教育を受けていないということ。
1928年、ジョージはニューヨークに滞在していたフランス人作曲家、モーリス・ラヴェルを訪問します。弟子入りを頼むも、大御所からの御言葉は「あなたは一流のガーシュウィンなのだから、何も私に習って二流のラヴェルになることはないでしょう」。この時ラヴェル53歳、ジョージ30歳。めげない彼は、ラヴェルに紹介状を書いてもらいます。その相手はフランス人作曲家で大学教授のナディア・ブーランジェ。しかし、こちらも「彼の生まれ持った音楽的才能を損ないたくない」と断られました。
もう一つ、広く流布しているのがロシア人作曲家ストラヴィンスキーに弟子入りを頼んだ話。彼は、ジョージの年収を聞くと驚いて「逆にどうしたらそんなに収入を得られるのか、私があなたに弟子入りしたい」と言ったとか。しかしストラヴィンスキーは晩年、これを否定しています。
セレブの病か大病か?
師匠は得られませんでしたが、その後は独学でオーケストラの作曲法を体得し、1928年、管弦楽曲『パリのアメリカ人』、1932年、同じく管弦楽曲『キューバ』序曲、1935年、オペラ『ポーギーとベス』を発表。出す曲すべて大人気。年を追うごとにジョージの知名度と忙しさは増すばかりです。指揮者、ピアニストとして1か月に30回の演奏会を開くことも。
1936年からは映画音楽も作曲するためにハリウッドに転居。1937年公開の映画 『Shall We Dance』(邦題は『踊らん哉』)の主題歌、挿入曲がいずれも世間に浸透し、定番曲になりました。
ところがこの頃からジョージを悩ませたのが頭痛。周囲は著名人が陥る「ハリウッド病」だろうと考えていましたが、1937年の6月に受診すると脳腫瘍の宣告。急遽手術が行われましたが7月11日にロサンゼルスで亡くなりました。享年38。
音楽家には珍しく、成功、名声、富を早くから手に入れたジョージ・ガーシュウィン。残念なことに、その死もまた早いものでした。
この曲、聴いてみませんか?
ガーシュウィン作曲『スワニー』