6月生まれの音楽家 イーゴリ・ストラヴィンスキー

 こんにちは。サンノゼピアノ教室の井出亜里です。
 好き好き大好きチャイコフスキー、ムソルグスキー、ストラヴィンスキー、カバレフスキー。ロシア四大スキー(と私は呼んでおります)のうち、今月生まれはストラヴィンスキーです。


 イーゴリ・ストラヴィンスキーは1882年6月17日のロシア生まれ。ポーランド人の父は声楽家、ロシア人の母はピアノが達者でした。
 母からピアノを習ったものの、目立つ才能は見せません。父も音楽家ゆえの苦労をした為、母は息子をペテルブルグ大学の法科へ進学させました。

友達のお父さんは音楽家
 しかし何の偶然か、法学部の級友ウラジーミルの父がリムスキー・コルサコフ。彼は管弦楽法の大家、ペテルブルグ音楽院の名教師と呼ばれ、交響組曲「シェヘラザード」で有名です。
 作った曲を片手に訪問しますと、それをコルサコフが添削。こうして法科学生ながら3年間、週に二回音楽理論と管弦楽法を習うことができました。

颯爽とバレエの曲で躍り出る
 1908年に「花火」という作品を発表。その斬新さに驚いた聴衆の中に、ロシア・バレエ団主催者、そして希代の興行師ディアギレフが居ました。彼はすぐさまバレエ「火の鳥」の作曲をイーゴリに頼みます。パリでの初演は大成功。ラヴェル、ファリャ、ドビュッシーも来ていました。ドビュッシーは終演後に舞台裏で作曲を激賞したほど。イーゴリは一躍音楽界に名を馳せました。

イーゴリの行く先々に逸話あり
 三体の人形が織りなす恋物語「ペトルーシュカ」は1911年にパリで初演、大成功。ところがイーゴリは虫の息。作曲中に煙草の吸いすぎでニコチン中毒、生死をさまよったのです。
 1913年に発表された「春の祭典」には聴衆が大騒ぎ。前奏から笑いとどよめきが起こり、聴きに来たサン・サーンスは前奏で憤慨して退席。肯定派と反対派が殴り合いの大乱闘。翌日の新聞には「春の“災”典 大失敗」の文字が並びました。落ち込むイーゴリとは反対にディアギレフは「悪名は無名に勝る」と涼しい顔。もしかすると、炎上商法だったのかもしれません。ディアギレフが初日のみ乱闘要員を雇った説も。翌年にはバレエ抜きの演奏会が開かれ、こちらは成功しました。
 1917年のイタリア旅行ではピカソに肖像画を描いて貰い、ご満悦。しかしこれが原因でスパイ容疑を掛けられます。ピカソの絵を見たスイスの入国審査官が、軍の地図と間違えた為でした。
 ココ・シャネルとの噂が流れたのは1920年。パリで住まいを探すイーゴリにシャネルが自分の家を提供したことで始まりました。束の間の恋愛でしたが後世まで残る話です。

 1945年にアメリカ市民権を得ますが、その前年、アメリカ国歌を編曲して法に触れたとボストン警察から大目玉。
 来日は77歳。NHK交響楽団を率いて「火の鳥」「ペトルーシュカ」「花火」「夜泣きうぐいす」を指揮。深々とお辞儀をし、額の汗を拭いながらの指揮に涙する人も多かったとか。感極まる聴衆。興奮冷めやらぬ楽団員。対して指揮者は楽団に対する感想をポツリ。「あのひとたちは、どうしてもテンポをわかってくれなかった」。

音楽もその人生も世界主義
 流転の人生を送ったイーゴリ。ロシアに生まれ、1906年にウクライナで結婚、居を構えます。1914年にスイス、1921年からフランスに移住。1939年にはハーバード大学に招かれての講演中に第二次世界大戦が勃発、フランスに帰れずロサンゼルスに住むことに。早速ジャズの要素を作曲に取り入れ始めます。1969年に86歳でニューヨークに転居。その根を下ろしたのは1971年。88歳で亡くなり、イタリアのサン・ミケーレ島に埋葬された時でした。彼の言葉で終わりましょう。
 「僕の国籍がどこかって?愚問だね。コスモポリタンだよ」。