生徒作文コーナー:「社会問題を略すということ」

サンフランシスコ日本語補習校  中高部 サンノゼ校 高等部2年 加藤 あろは(かとう あろは)さんの作品をご紹介します。

「社会問題を略すということ」

サンフランシスコ日本語補習校 中高部 サンノゼ校
高等部二年一組 加藤 あろは(かとう あろは)

 コミュニケーション文化が発展しているなか、「略語」というものの使用率は年々増している。言葉を省略して言いやすくするという点のみを見れば非常に便利ではあるが、私は、略す対象となる言葉とそれを使う場面をわきまえるべきだと思う。なぜなら、今ある社会問題の危険性や解決の必要性が人々に伝わらないと思うからだ。

 私は「略語」と社会問題との関係について考える前から言葉を略すのが好きではない。マンガやアニメ、本などの題名になるとなおさら違和感を覚えていた。しかしこれは私のこだわりであり、社会問題という大きなテーマに繋がりがあるとは考えもしなかった。

 そんな私に「略語」の問題性を教えてくれたのは現地校の友達だった。男女差別のリサーチをしていた彼は、なぜ日本ではセクシュアルハラスメントをセクハラというのか問うてきた。私は、「日本人は略すのが好きなんだよね」と答えたが、セクハラだけでは何が問題なのか分からないと言われてしまった。同意する他なく、会話はそこで終わってしまった。

 日本で「セクハラ」と聞けば、大半の人がどういうものか説明できるだろう。だがもしや、と思い調べてみると、セクハラが何か知っていても、それが何の略なのか質問している人がいた。このようにセクハラという言葉が何の略か知らずに使っている人は、問題を軽くみてしまうのではないかと私は思う。

 また、日本ではコロナウィルスが流行しはじめてから使われるようになった言葉がいくつかある。「マンボウ」もその一つだ。「マンボウ」とは、「蔓延防止」の略で、日本のニュース記事やテレビ番組で一時期頻繁に使用されていた。確かに「蔓延防止」というより「マンボウ」と言った方が文字数は少ない。しかし、減るのはたった三文字だ。その三文字の為に「蔓延防止」を使って「マンボウ」と略す必要性を私は感じない。

 その上、「蔓延防止」を「マンボウ」と略すと魚のマンボウを連想してしまう事があるだろう。実際、初めて「マンボウ」とテレビで聞いた時、なぜコロナと魚が関係しているのだろうと思った。そのためニュースに集中する事ができなかった。

 更に、「マンボウ」は魚を連想させるため、言葉にかわいらしさが加わるように思う。そうすると、コロナウィルス蔓延防止の重要性が薄れてしまう。これは、日本政府が国民に恐怖を感じさせないための優しさなのか、それともコロナ禍でも日本には余裕があるとみせたい自尊心なのか、または単純に言いやすいというだけなのか私には分からない。が、コロナ蔓延という生と死にまで関わる社会問題を「マンボウ」と略すのはあまりにも事を軽視しているように思うのだ。

 ハラスメントの話に戻るが、日本にはアカハラ、スメハラ、スモハラ…などが存在する。アカハラはアカデミックハラスメント、スメハラはスメルハラスメント、スモハラはスモークハラスメントの意味らしい。そしてどれも日本でできた言葉なのだそうだ。こういった風になんでもカタカナで書き略してしまうのは、日本人の特徴とも言えるだろう。私はアカハラを「教育ハラスメント」と言い換えるだけでも、この社会問題がどういったものなのか伝わりやすくなるように思う。

 しかし当然「略語」を全否定している訳でもない。私もイラストレーションをイラストと言ったり、携帯電話をケータイと言ったり、コンタクトレンズをコンタクトと言ったりする。「略語」を日常的に使い、それを良しとする人の気持ちも理解できる。だからこそ、略語をなくすのではなく、使用する時と場合をわきまえるべきだと思うのだ。

 コミュニケーション文化、そしてグローバル化が進む今、日本にはカタカナ英語が増えてきている。そして日本人の性格上それらの言葉を略すことが多い。言葉を略す事には利点もあるが、意味が伝わりづらいという欠点も存在する。社会問題が省略されていると、真意が伝わらず、一向に問題解決に近づく事はないだろう。

 今、この時代を生きる私たちは使う言葉を慎重に選び、「略語」というものが及ぼす影響について考えなくてはならないのだ。