アメリカに現存する3つの日本町の一つ
サンフランシスコのジャパンタウン
サンフランシスコのジャパンタウンは19世紀から20世紀にかけて発展し、今ではサンフランシスコの名所一つとして知られる。第二次世界対戦以前は日本人や日系人の居住地としての役割が主であったが、現在のジャパンタウンは日本や日系文化を象徴する観光地へと変遷を遂げた。
サンフランシスコ日本町の発祥
1869年にサンフランシスコに到来した後、多くの日本人移民は1880年ごろまでチャイナタウンのある地域に住んでいた。しかし1906年のサンフランシスコ大地震と火事によって、その多くが住む場所を無くしてしまう。新しく日系コミュニティが居住地として利用できる場所を探した結果、日本人居住者の一部が、現在の日本町が位置するウェスタン・アディションに移り住むことになった。
その後20世紀に入ってから、日本人のアメリカへの移民は徐々に制限されるようになり、1924年の移民法改正によって事実上停止した。その当時、もともと日本人移民のほとんどが出稼ぎ労働者であったたが、長期滞在しアメリカに家族を築いていたものは永住する意思を持つようになった。そのようにして1920年代から30年代にかけ、サンフランシスコの日本町は長期滞在の日本人移民によって発展し、最盛期には約5千人の日本人・日系人が居住していた。
第二時世界大戦中
〜強制収容とジャパンタウン〜
1941年に日本海軍がハワイの真珠湾を攻撃してから、アメリカにおける日本人とその子孫たちの生活は一転する。多くの日系コミュニティの指導者がスパイ容疑で次々に逮捕され、ついには大統領令9066号によって、約12万人の日本人移民とその子孫が収容所(Internment Camp)に強制的な移住を命じられた。サンフランシスコのジャパンタウンも例外ではなく、そこに住む日系人は収容所に移され、日本人がいなくなったジャパンタウンには、職を求めたアフリカ系アメリカ人が住むようなった。
第二時世界大戦後〜観光地化〜
戦後、強制収容所から帰還した日系人によって、サンフランシスコ・ジャパンタウンは元の賑やかさを取り戻しつつあった。そんな中、1950年代から60年代にかけてサンフランシスコ市政によってウェスタン・アディション地区の再開発が行われ、日本町の観光地化が一気に進む。新たに日本企業によるビジネス複合施設である日本文化貿易センター(現ジャパンセンター)が建設された。1968年に完成したジャパンセンターは、レストランやディナーシアター、歌舞伎が鑑賞できる施設などを備えたものとなった。商業施設としての利用だけでなく、チェリーブロッサムフェスティバル(桜祭り)や日本町ストリートフェア、盆踊りやお正月のイベントなど、ジャパンセンターは日系コミュニティのイベントの中心地として利用されている。このようにして、今日のジャパンタウンはこのジャパンセンターを中心に発展したものであり、日本人だけでなくアメリカ人を惹きつけ、日本の文化を日系コミュニティに止まらずアメリカの多様な社会に伝える場としての重要な役割を果たしている。
人々のつながりで発展してきた
サンノゼジャパンタウン
サンノゼジャパンタウンの発祥
1890年ごろからサンノゼ地方を含むサンタクララ平原へ日本人移民が移住を始める。その当時、サンタクララは豊かな農業地帯であり、果樹・野菜・ナッツなどが栽培されていた。日本人移民は農業労働者としてこの地方に移り住んだ。20世紀初頭までには数百人ほどが住むようなり、サンノゼ日本町はこうした周辺の日系農業労働者コミュニティの中心地として発展することになる。
しかしながら当初は日本町としてのコミュニティを発展する動きはなく、多くの日本人がサンノゼにあったチャイナタウンに居住していた。アジア人街の中心として、チャイナタウンは家やエンターテイメント、レストランなどが発展しており、日本人には居心地の良い場所であった。
20世紀初頭にかけて日本人はチャイナタウンに隣接した場所に自身のコミュニティを築いていく。この時点で、文化的サポートや仕事、日用品などの日本独自の生活様式がこのコミュニティの中にでき上がっていた。
ジャパンタウンの発展
1920年代から世界大恐慌にかけて、ジャパンタウンはゆっくりと、しかし確実に発展を遂げていく。木で生い茂っていた道は自動車が走る車道に整理された。レストランや店もでき始め、仏教の寺も建立された。残念ながら恐慌の影響で、1931年までに当初日系人を受け入れ支えていたチャイナタウンは消滅の道をたどり、代わりにジャパンタウンがアジア系移民の新しい居住地として、人々に受け入れられていった。
第2次世界大戦の影響
ジャパンタウンの発展は1942年5月に日本人強制収容のため突然止まってしまう。日系人強制収容の間、住む人を無くしたジャパンタウンでは多くの建物が無人となり、ゴーストタウンとなる。1945年に終戦を迎え、多くの日本人・日系人が収容所から帰還するとジャパンタウンは、反日系人への人種差別から居住者を守る特別な場所となった。そのため1950年代から1960年代にかけ、ジャパンタウンの人口は2倍となった。
その後
1970年代にかけて一世の高齢化と日系人のアメリカ社会への順応のため、ジャパンタウンは日系コミュニティにおけるその役割に影を落とし始める。多くの二世が、日系居住者の高齢化と、どうやってジャパンタウンにおけるコミュニティの活性を維持する問題に直面していた。そんな中、あるCultural Awareness が三世達をジャパンタウンの再建にむけて突き動かすようになる。それは、「ジャパンタウンはそこに住む住人とスモールビジネスによって成るものである。大きな組織や企業ではなく、ジャパンタウンに住む家族や団体によってNIHONMACHIは運営されているのだ。」という誇りであった。
そうして1980年代に入り、ジャパンタウンの再建設が行われた。その計画の実行は、大きな企業の指示ではなく、ジャパンタウンに住む居住者やスモールビジネスを担う人々によって実行された。この出来事はサンノゼのジャパンタウンが、人々のつながりや協力によって存続してきたコミュニティだという、結束の強さをしめしていると言えるだろう。
参考資料
佃陽子「移民氏を『場所』に刻印すること:サンフランシスコ日本町保護運動を事例として」
Japantown Atles-San Francisco Japantown
History of Japan Town San Jose
杉浦直「サンノゼ日本町の生成と歴史的発展:空間構成の変容を中心に」