ベイエリアの日系人が辿って来た道:日系人強制収容、コルマ日本人共同墓地の歴史

Flag of allegiance pledge at Raphael Weill Public School, Geary and Buchanan Streets, San Francisco, April 20, 1942 Photo by Dorothea Lange

日系人強制収容・隔離の過去「日本人」であることが罪であった時

資産も学校も仕事も全部奪われ、「あなたは明日から馬のレース場に住み、社会から隔離して収容します」と突然告げられたら?なぜと尋ねた時、「それはあなたが日本人・日系人だから」と突きつけられたら?その悲劇がまさにここアメリカで暮らす日本人の先祖たちに起こったことである。日本ではほとんど語られることのない、第二次世界対戦中にアメリカで起きた日系人強制収容の歴史的事実を紐解いていく。

日系人強制収容とは?

1942年から1945年にか
けて日系アメリカ人(以下日系人)は全米に10ある収容所(Relocation Centers)に強制的に隔離された。約12万人の日本人・日系人が、そのほとんどがアメリカの市民であり、潔白であったにも関わらず、社会から隔絶され不遇の生活を強いられることとなった。

日本人・日系人への差別感情はなぜ生まれたのか?

日本軍による真珠湾への爆撃はアメリカ人に多大なるショックと恐怖を与え、多くの日本人・日系人が日本軍のスパイを疑われたり、また真珠湾の惨劇を繰り返すのではないかと懸念が多くの人々の心うちで広がっていった。そのような疑いと恐怖がアメリカに住む人々の中に反日感情を産み、日系コミュニティーへの差別感情へとつながっていく。その後、日系人が国家の安全保障の脅威になるという口実のもと、1942年にフランクリン・ルーズベルト大統領は日系人の強制立ち退きを命じる大統領行政命令9066号に署名したのであった。

ベイエリアの日系人強制収容タンフォラン集合センター

サンフランシスコの南、San Brunoに位置する大型ショッピングモールのタンフォラン(Tanforan)はかつては競馬場であり、1942年4月28日から一時的日系人隔離施設・集合センター(Assembly Center)として利用された。多くの者が最小限の荷物を持ち込むことしか許されず、仕事を失い、学校をやめさせられ、安値で資産を売るか、最悪の場合は全てを没収された。それまで共存していたアメリカの社会から切り離され、収容所内での隔離生活が始まったのである。

Apr. 29, 1942, Tanforan Assembly Center – Photo by Dorothea Lange

タンフォラン集合センターでの生活の様子

タンフォランの集合センターは競馬場に急ごしらえで作られた収容場であったため、施設も粗末で食料も十分に供給されていなかった。七千人収容していたにも関わらず、24基しかトイレが設置されていなかったり、毎日の食事もままならない生活を余儀なくされた。医療施設も十分にない場所であったため、収容所で生まればかりの赤ん坊はダンボールに入れられたという記述が残っている。施設は有刺鉄線のフェンスで囲まれ、兵によって常に監視されていた。

日系人たちの終わらぬ苦悩

理不尽な強制収容によって、多くの者が日系アメリカ人としてのアイデンティティを傷つけられたと言える。強制収用中は多くの者がさらなる迫害を受けるのではという恐怖に怯えた。戦後解放されても仕事や財産を失い、社会的地位を失ってしまっていたのに加え、日系人への差別も続いた。部外者として疎外され、差別を受け、翻弄された日系人の多くが、アメリカに住んでいると安全ではいられないという社会と政府への不信感、恐怖に苦しむこととなったのである。

届いた祈り

多くの日系人が戦時中、戦後のこの不条理な体験を政府に訴え続け、40年後の1982年「戦時市民転住収容に関する委員会」は「日系アメリカ人の強制収容は軍事的必然性によって正当化できるものではなく、それは人種差別であり、戦時ヒステリーであり、政治指導者の失敗であった」とようやく結論した。訴え続けた日系人の悲痛な叫びがついに届いたのである。1988年8月10日、レーガン大統領は「1988年市民の自由法(通称、日系アメリカ人補償法)」に署名、二度と同じ過ちを繰り返さないよう謝罪、被強制収容者全員に賠償金を支払うと共に、歴史教育の為に12億5000万ドルの教育基金を設立した。

コルマ日本人共同墓地:祖国を離れた日本人の先駆者たち

Photo by Mark Shigenaga

サンフランシスコの南、コルマは「魂の街(City of Souls)」として知られている。ここに多くの共同墓地が集まっているからだ。一帯に広がる墓地群を眺めながらなだらかな丘を登っていくと、不思議な静謐さに満たされた場所に日本人共同墓地はある。ここに日系コミュニティの発展に貢献した多くの日本人・日系人が眠っているのだ。コルマ日本人共同墓地が設立された120年前、遠くアメリカの地で暮らした日本人の先駆者たちは異国の地で何と向き合い、戦い、乗り越えたのか。コルマ日本人共同墓地の歴史を通して、日系コミュニティの発展に貢献した人々の軌跡をみつめたい。

コルマ日本人共同墓地設立までの成り立ち

1870年代、日本人共同墓地が設けられる前、日本人はサンフランシスコ市の公設墓地である「ローレル・ヒル」または「マソニック公設墓地」に埋葬されていた。しかし日本人の埋葬地が散在するのを嘆いた初期福音会は、Otis Gibson教会監督に依頼し、中国人墓地の一部分を日本人墓地として使用することとなった。しかしながら1879年頃、日本人娼婦が死亡、その埋葬をGibsonに拒絶されてしまう。似た悲劇は再び起こる。1901年において3人の娼婦が黒死病で死亡するが、娼婦であったということで埋葬拒否事件が再び起きてしまう。これらの事件を発端にして日本人墓地の必要性が高まり、設立運動が起きた。その後、加州日系人慈恵会が、⑴加州在留日本人に対して疾病もしくはその他の災難に罹り、他からの援助を受けることのできない人を救済すること。⑵加州在留日本人のために共同墓地を設けかつこれを管理すること、を目的とし組織され、日本人共同墓地が創設されることとなった。これが1902年のことである。このような経緯で創設されたコルマ日本人墓地は、ベイエリアにおける日系コミュニティーの結束を象徴した場所とも言えるだろう。

最初に埋葬された日本人咸臨丸の水夫たち

1860年、江戸幕府の通商条約批准交換のため、ジョン万次郎、福沢諭吉、勝海舟などを乗せた咸臨丸が遠くアメリカの地を目指して日本を出航する。この航海で咸臨丸は、日本で初めて太平洋を横断した船となった。37日の航海を経て一行はサンフランシスコにたどり着くが、長旅に疲弊した3人の水夫、源之助(25歳)、富蔵(27歳)、峯吉(不明)がサンフランシスコで命を落としてしまう。彼らは一旦、サンフランシスコの共同墓地であるローレンス・ヒルに埋葬され、多くの人々に忘れ去られそうになるが、その後再発見され1926年頃にコルマ日本人共同墓地へと移動することになった。

『幕末・明治・大正 回顧八十年史』(東洋文化協會)より、1860年の咸臨丸乗員。右から:福沢諭吉、岡田井蔵(幕臣)、 肥田濱吾郎、小永井五八郎、濱口興右衛門, 根津欽次郎。使節団はサンフランシスコに9日滞在した。

そのうちの峯吉は咸臨丸出航後に死去したため、彼の墓は咸臨丸船長に代わり当時日本の代理理事であったチャールズ・ウオルコット・ブロックスによって建立された。そのため共同墓地にある彼の暮石の裏には”This monument is erected by order of the Emperor of Japan”と英字で記されている(Emperor of Japanとは、ここでは江戸幕府のこと)。

日米の交流の黎明期に、江戸幕府を代表してアメリカを目指した人々がおり、両国の架け橋となるため文字通り命をかけたという事実は、コルマ日本人共同墓地が日本史上でも語られるべき重要な場であることを示している。

左から富蔵、源之助、峰吉のお墓 1300 Hillside Blvd Colma, CA 94014
源之助、富蔵の漢字名は勝海舟が書いたと言われている。

参考資料:
全米日系人博物館 「日系アメリカ人強制収容所の概要」より
Densho Encyclopedia
Gary Kamiya, San Francisco Chronicle
“7,800 imprisoned in San Bruno for just 1 crim: being Japanese”

History.com “Japanese Internment Camps”
加州日系人慈英会『コルマ日本人共同墓地拡張計画』パンフレット