Interviewed by Rumy Smith
◆やまざき・なおこ プロフィール
千葉県松戸市生まれ。東京大学大学院工学系研究科修了後、宇宙開発事業団に入社。1999年国際宇宙ステーション(ISS)の宇宙飛行士候補者に選ばれ、2001年認定。2004年ソユーズ宇宙船運航技術者、2006年スペースシャトル搭乗運用技術者の資格を取得。2010年4月、スペースシャトル・ディスカバリー号で宇宙へ。ISS組立補給ミッションSTS-131に従事した。2011年8月JAXA退職。現在は内閣府宇宙政策委員会委員、女子美術大学客員教授、一般社団法人Space Port Japan代表理事などを務める。今年11月に「宇宙に行ったらこうだった!」を出版。ほかの著書には「宇宙飛行士になる勉強法」(中央公論新社)、「夢をつなぐ」(角川書店)、「瑠璃色の星」(世界文化社)など。
Space Port Japanウェブサイト https://www.spaceport-japan.org/
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2010年4月5日、スペースシャトル・ディスカバリー号のクルーの中に、日本人女性として二人目の宇宙飛行士・山崎直子さんが搭乗していた。国際宇宙ステーションでの重大なミッションを遂行する姿に、誰もが大きな勇気と希望をもらったのではないだろうか。
現在は日本を拠点に内閣府の宇宙政策委員会委員やSpace Port Japanの代表理事として宇宙関連事業の振興に尽力され、また二人のお子さんを持つママとして充実した日々を送る山崎さんに、J weeklyが今回特別にインタビューしました。
|今回は貴重な機会をありがとうございます。まず、小さい頃はどんなお子さんでしたか。
性格は基本的にはのんびりしたタイプの子供でした。千葉の松戸で生まれ、父の転勤で北海道札幌市にも住んでいたのですが、どちらも自然豊かな環境で、特に札幌では星空がとても綺麗で、その影響で星が好きになりました。また、庭先で孵化しそうなセミを見つけると、毛布をかぶって孵化の様子を明け方までじっと観察したこともありましたね。ただ親に言わせると、まだ小さかった私を残して家族でナイトスキーに行こうとした時があったらしいのですが、「私も行く!」と言って既に服も着替えて自分で準備していたこともあるという、「これをやりたい!」と思うと、とても頑固なところもあったようです(笑)。
星が好きになり、宇宙が好きになり、当時大人気の「スター・ウォーズ」や「宇宙戦艦ヤマト」という作品にも影響を受け、「大人になったら、将来はみんな宇宙に行けるのかな」と夢見ていた子供時代でした。
|宇宙飛行士を目指すようになったきっかけ
小さい頃は、学校の先生に憧れていました。両親も特に宇宙関係の職業だったというわけでもなく、当時は日本人で宇宙飛行士になった人はいなかったので、まだ身近な存在ではなかったのです。
ただ、中学生の時にスペースシャトル・チャレンジャー号が打ち上げ73秒後に爆発、空中分解したニュースを見て、非常に衝撃を受けました。宇宙から授業を行うプロジェクトで選出された教師のクリスタ・マコーリフさんや日系三世のエリソン・オニヅカさんが搭乗されていたことも打ち上げ前から注目が集まっており、非常に悲しいニュースだったのですが、同時にSFやアニメの世界ではなく、現実の世界に実際に宇宙関連の仕事があるんだと思い、亡くなった方々の遺志を継いで、宇宙飛行士としていつか宇宙から授業ができたらいいな、と思ったのがきっかけです。その後、秋山豊寛さんが日本人で初めて宇宙に行き、毛利衛宇宙飛行士も続き、私も職業として意識するようになりました。
|「宇宙飛行士になりたい」と伝えたときのご両親の反応はいかがでしたか。
その後の進路で航空宇宙工学を専攻する際に親に相談したりはしていましたが、実際に宇宙飛行士に応募する際に家族にコメントを書いてもらう書類があったので、父に頼み、そこで初めて伝えました。ものすごく驚いていましたね(笑)。
|驚かれたでしょうね。宇宙飛行士になるまで、どのような勉強をしましたか。
中学、高校と宇宙への思いはあっても当時はインターネットもなく宇宙飛行士の応募条件も分からず、具体的にどんな進路に進むべきか分からなかったので、まずは宇宙開発に携わることができる航空宇宙工学を専攻しようと思いました。大学院の時にはロータリー財団の奨学金とアメリア・イアハート奨学金(航空宇宙学関連の工学・科学を研究している女子大学院生を対象に年額1万ドルを給付する奨学金制度)を得てメリーランド州立大学に1年間留学しました。
実は中学生の時、アメリカのお友達と文通をしていたことがあり、彼女が送ってくれるアメリカの雄大な景色のポストカードを見る度に「いつかアメリカに行ってみたいな」と思っていたので、とてもいい機会となりました。
|留学生活でどんなことを体験しましたか。
日本で英語を勉強したつもりでも言いたいことが伝わらず、語学面では苦労しました。旅行も含めて初の海外体験だったので、全てがカルチャーショックでした。世界各国から様々な人種の人たちが学びに来ていて、アメリカにいながら世界を知る、という大変貴重な体験ができました。また奨学金のプログラムの内容で、現地の人と交流を結ぶネットワーキングのような機会があったのですが、当時70歳ぐらいの女性がヘリコプターのパイロットで、「操縦って楽しいのよ」と満面の笑顔で語っていた姿に、驚きました。と同時に、パイロットといえば屈強な男性、というイメージが強くあり、無意識に性別や年齢などのバイアスがかかっていた事にも気づかされました。
このことから、何歳になっても性別なども関係なく、好きなことに挑戦出来るんだと大きな励みになり、「よし、中学生から憧れていた宇宙飛行士に挑戦してみよう」と決意しました。実はその後に宇宙飛行士に応募したものの落選しましたが、2度目の応募で宇宙飛行士候補生として選抜され、1999年4月より訓練が開始しました。
|宇宙飛行士の訓練とはどんな内容ですか。
日本は有人宇宙船を持っていないので、訓練は主にアメリカやロシア、カナダなどを転々としていました。2004年からNASAの宇宙飛行士クラスにアメリカ人11名、日本人2名と共に参加しました。これはNASAの宇宙機の運航などを司るミッションスペシャリストとしての訓練です。驚いたことは、訓練の9割は非常時の備えでした。宇宙船が不時着した時のサバイバル訓練や救助に来たヘリが墜落した時のサバイバル訓練、電気が停電になった場合や機器が壊れて地上と通信できなくなった場合などがほとんどでした。面白いことに、訓練してたような事態は実際には起きずに、それとは全く違う想定外のハプニングが起こるんですね。だからと言ってこれまでの訓練が無駄かというとそうではなく、訓練してきたからこそ想定外のことに素早く対応できる動作や仲間とのコミュニケーションができ優先順位をつけられたりできるのです。なので、備えは本当に大事だなと実感しました。まさに「備えあれば憂いなし」です。
|その間、ご出産され子育てが始まりましたが夢の実現と家庭との両立のため、訓練期間中はどのように気を配っていましたか。
当時、主人は日本とアメリカを行ったり来たりで子供のケアをしてくれてたので、私より家族の方が大変だったと思います。先輩宇宙飛行士にも子育て中に訓練をし、ご主人は他州でお仕事と、お互い同じような状況でしたが「チャレンジングではあるけどインポッシブルではないよね」と励まし合っていました。また、NASAでは「ファミリーサポートオフィス」という家族をサポートしてくれる部署があり、宇宙飛行士の家族が困っている事や不安な事などを匿名で人事部などに声をあげてくれ、対応してくれるのです。その結果、NASAから訓練の内容を家族に説明してくれたり、訓練施設に家族を招待して今どんなことをしているのか明確にしてくれたので、家族と共有でき、より深い理解と協力をもらえました。また2003年にコロンビア号の事故があった際には、家族の不安を取り除く為に事故防止の対策などを説明してくれたので、宇宙飛行士本人からの説明ではなくNASAが責任を持ってやってくれたことが大きかったです。NASAの宇宙飛行士はミリタリー出身の方が多いので、長い不在期間に残された家族の不安を取り除くように配慮されたアメリカ軍の文化の延長なのではないかと思います。一人きりでは本当に厳しかったと思いますので、家族はもちろん同僚、会社にも大感謝です。
|2010年4月にディスカバリー号搭乗。宇宙から地球を見た感想を教えてください。
言葉にはできない感動でした。スペースシャトルの打ち上げからたった8分30秒で400キロ上空の宇宙に着いてしまうんですが、宇宙船の窓を覗くと地球が朝日を受けて青く美しく輝いていました。無重力状態なので時には地球が頭上にあり見上げる格好になります。地球からは宇宙を見上げていて、宇宙に行ったら地球を見上げているという、不思議な体験でした。私達人間も宇宙空間にいて、地球という「生き物」と対峙しているような感覚でした。それまでは宇宙は憧れで特別な場所でしたが、実は地球こそが特別で奇跡の存在なんだなと、考えが変わりました。夜になると地球が暗くなり、電気の明かりで夜景が綺麗に見えます。人間が作った宇宙船や衛星が地球の目や耳となり、様々な情報を集めて地球をよりよい場所にしていく共存していく存在なんだなと思い、人間のもつ力の凄さも実感しました。ちなみに、スペースシャトルで聴くモーニング・コール曲には『天空の城ラピュタ』の『ハトと少年』、松田聖子さんの『瑠璃色の地球』が家族から選ばれました。
|宇宙での無重力、密閉空間でチームメンバーと円滑な関係を保つために、心がけていたことは何でしたか。
宇宙船の中では窓も開けることができませんし、家族や友人に会うことも出来ませんが、地上とは常に交信ができます。現在、コロナ禍での外出自粛やリモートワークという生活の中でも、テレビ電話やE-mailなどで連絡はできるので、そういう意味では宇宙船の中と同じような状況とも言えます。私のクルーは主にアメリカ人、ロシア人とのチームでしたが、国際宇宙ステーション(以下、ISS)では様々な国籍の方が入れ替わりでミッションに従事していました。そんな環境で大事だなと思ったのは「思ったことは言語化する」ということです。日本だと「言わなくてもわかるだろう」という文化がありますが、言わないとお互いに理解できないことが多いので、「ありがとう」の感謝の気持ちや感じたことは言うように心がけていました。
|ミッション終了後は様々な立場から宇宙関連事業の振興に尽力されていますが、具体的な活動内容を教えてください。
現在は内閣府の宇宙政策委員会の委員として政策面から宇宙開発をサポートしています。そして2年前にSpace Port Japanという一般社団法人を立ち上げ、代表理事を務めています。目的の一つは、宇宙船の離発着ができるSpace Portをつくり、アジアの宇宙旅行のハブとなることです。今後、宇宙船は飛行機のように宇宙を周遊したり、輸送網としての役割も期待されています。宇宙という存在をより身近にしていくことが次の私のミッションだと思っています。俳優のトム・クルーズさんも来年、ISSにて宇宙で映画撮影を行うと発表しました。とても楽しみです。
|宇宙に気軽に行ける時代はすぐですね。今後宇宙開発が進み、女性が宇宙で出産した場合、国籍はどうなるのでしょうか。
現在、アメリカ主導のアルテミス計画(月面着陸、最終的に人類を火星に送る計画)があるのですが、火星には地球の3分の1の重力があるので人類にとって住みやすい環境かも知れません。ただ、無重力環境が女性の妊娠・出産における影響は未知数です。というのも、動物倫理規程があり、哺乳類の生殖に関しては今は審査が厳しいのです。無重力環境でもメダカの孵化やカエルの受精卵の分割、生後一週間の鶏卵の孵化は影響はないと実験証明されました。逆に生後すぐの鶏卵は無重力環境では孵化しなかった結果から、生後何らかの重力が必要なのではと研究されています。もし女性の出産がISSで可能になったと仮定した場合、ISSには各国ごとの実験棟があるので、出産した実験棟の国に準ずるのではないでしょうか(笑)。
|宇宙探査機「はやぶさ2」のカプセルが無事帰還しましたが、今回のデータでどういうことが分析できるでしょうか。
「はやぶさ2」が調査を行ったりゅうぐうは炭素系が主成分の小惑星で、アミノ酸といった生命を構成する成分が含まれているかも知れず、太陽系の初期にどう有機化合物が生まれたのかを知る手がかりになります。地球上の生命は海から進化したと考えられていますが、それは宇宙からの隕石が地球に何らかの有機化合物をもたらし、進化していったのではという説があるからです。今回、りゅうぐうに人工クレーターを作り表面だけでなく内部物質も採取できましたので、りゅうぐうが誕生したとされる40億年前の情報分析も期待されています。「はやぶさ2」は早くも次のミッションに向けて出発しており、次回小惑星に到着するのは2031年の予定です。
|11月にスペースX社の宇宙船「クルードラゴン」で野口聡一さんら宇宙飛行士がISSに到着しミッション遂行中です。民間企業が宇宙開発の主流となる事にどう感じられていますか。
これまで国主導だった宇宙開発が、民間で開発をする時代になった大きな象徴で、とても嬉しく思います。クルードラゴンの本格運用第一号の成功が、宇宙関連の新規事業やスタートアップが増えている中で大きな希望になったと思います。地球の技術と宇宙の技術がボーダーレスに連携していく時代になり、さらに発展していって欲しいです。
|コロナ禍で頑張るベイエリアJ weekly読者へのメッセージをお願いします。
コロナ禍の移動制限もある中で会いたい人に会えなかったり大変な状況が続いていますが、大切なのは「気にしてるよ」と思いを伝えることと「大変な状況だからこそ、みんなで乗り越えていこう」という気持ちだと思います。この新型コロナウイルスによる危機に負けず、地球を更により良い場所にする為に、みんなで協力し、一緒に乗り越えていきましょう。