こんにちは。サンノゼピアノ教室の井出亜里です。
最近、ヨーロッパからやってきた4歳のA君。レッスンで筆者が「Aちゃん、慌てて弾かなくて大丈夫よ」というと、手を止め、「そう。慌てるものは貰いが少ない」。
驚いてどこで習ったのか訊けば、ベルギーでは良く聞くことわざだと、そしてそれは現実によく起こるのだと教えてくれました。
また、ある日の帰りがけ。お母さんに「先生に何ていうの?」と聞かれたA君。「今までお世話になりました」。ちょっと待って、と慌てる筆者。その言葉じゃなくてね、と諭すお母さん。かの地を発つ時に、A君が何度も言った挨拶なのでしょう。早熟な言葉と老成した口ぶりが可笑しくて、次のレッスンが待ち遠しいのです。
さて、今月生まれの音楽家はレナード・バーンスタイン。来日したこともあり、名前は聞いたことがある、という人も多いのではないでしょうか。
“男の仕事” をせぬ男
レナード・バーンスタインは1918年8月25日にマサチューセッツ州で生まれました。両親はウクライナ系ユダヤ人移民。父は理容師で生活は豊かではなかったのですが、幼い息子に音楽のレッスンを受けさせました。
10代になるとバーンスタインはクラシックからポップスまでを得意のピアノで弾き、その傍らアマチュアミュージカルの劇団を立ち上げます。クラシックオペラの題材を取りいれた作曲で周囲の注目を集めました。
父親は「音楽なんて男の仕事ではない。せいぜいホテルやジャズクラブでピアノを弾いて、拍手を貰える程度だ。もっと確実に金を稼げ」と叱咤激励するも、反対を押し切って17歳でハーバード大学音楽学部に入学したのです。
生活難とニューヒーロー
指揮と作曲を学び、大学を優秀な成績で卒業したバーンスタイン。しかしその生活は父の予測通り、ホテルでピアノ演奏をしながら日銭を稼ぐ貧しいものでした。半地下の暗いアパートに住みながら作曲を続け、指揮者仲間と交流を続ける毎日。
ある時、大きな転機が訪れます。それは1943年にニューヨーク・フィルハーモニックの副指揮者に任命されたこと。これは正指揮者の補欠要員でした。緊急事態が起きた時のみ、出番が回ってくるのです。バーンスタイン 自身も、「実際には指揮台に登る機会はほとんどなかった」と回想する閑職。ところが、まさかの緊急事態発生。出番です。バーンスタインが代役として指揮し、大成功。翌日の新聞各社は彼を大絶賛。今までのニューヨーク・フィルの指揮者は外国、特にヨーロッパから渡米した人たちでしたから。初めてのアメリカ生まれ、アメリカ育ちの指揮者。しかも25歳という青年の活躍に世間は沸きました。
快進撃はなお続く
華々しいデビューの翌年、1944年に彼の作品『交響曲第一番「エレミア」』が初めて演奏されました。時は第二次世界大戦中。ナチスの迫害を受けた多くのユダヤ人がアメリカに辿り着いていました。ユダヤ系のバーンスタインは差別、迫害、戦争に対する慟哭をこの交響曲に吐露します。これが戦争に疲弊した人々の共感を呼び、作曲家として広く知られるようになったのです。
最高傑作とマエストロ
『ウエストサイド・ストーリー』。「ロミオとジュリエット」の舞台をニューヨークに置き換えたミュージカルです。この作曲をしたのが、バーンスタイン39歳のとき。クラシック、ジャズ、ラテン、ロックと幅広いジャンルから万人が楽しめるメロディを紡ぎ出して大ヒットを記録しました。
そのため何十年と時が経過しても、バーンスタインの訪問地はいつも『ウエストサイド・ストーリー』のヒット曲で彼を迎えたのです。ある時は弦楽四重奏、ある時はピアノ、そしてまたある時はヴァイオリンで。後年、自分の作品はこれだけではない、もううんざりだと本人はこぼしていました。
巨匠の土産は熱いキス
指揮者、作曲家、そして教育家として周囲に尊敬され、カリスマ性では瞠目され、屈託ない性格で慕われ愛されたバーンスタインですが、人に嫌がられる悪癖も持っていました。それは指揮が大成功した時に起こる、恐怖の一幕。帰りがけのオーケストラ団員、全員へのキス。唇への、情熱的な、キス。(体験した人間は後に「いそぎんちゃくに吸いつかれたような」と形容)女性は勿論、男性もO K。むしろウェルカム、マイプレジャー。舞台袖で一人一人を待ち構える周到さ。唇を尖らせて待機する指揮者。戦慄する楽団員。これを嫌悪する団員は、聴衆に紛れてホールを去っていたのです。
晩年は肺がんに罹り、病躯を押して後進の指導や指揮をしていましたが、1990年10月14日に亡くなりました。享年72。
今も世界中に多くのファンと弟子を持つ、カリスマ指揮者のお話でした。
<著者からのお知らせ>
9月号の「ピアノ教室へ行こう!」はお休みします。10月号から再開します。