6月生まれの音楽家 リヒャルト・シュトラウス

 こんにちは。サンノゼピアノ教室の井出亜里です。

 名前。姓と名の組み合わせ具合で、著名人を強く連想させるものがあります。例えば吉田栄作。30年前の人気俳優ですが、筆者の祖父母や両親は、「吉田茂じゃないの?佐藤栄作じゃなくて?」と時の総理大臣が頭に浮かぶようでした。

 また、ベイエリアのとあるコメディショウで、こんなことを言っていた芸人がいました。彼はインドと日本の混血です。「普通の名前で良かった。これがマハトマ・三菱とかじゃ、洒落にならないよ」と。

 さて、今月生まれの音楽家はリヒャルト・シュトラウス。どんな人でしょう。

苗字も名前もマエストロ

 音楽界で、リヒャルトと言えば思い出すのはワーグナー。同様に、シュトラウスと聞けば “ワルツの父”や“ワルツの王”を輩出した音楽一家シュトラウス家を連想します。

 しかし、リヒャルト・シュトラウスは、彼らとは赤の他人。1864年6月11日にドイツ、ミュンヘンで生まれました。父は名ホルン奏者のフランツ・シュトラウス、母は大規模ビール工場主の娘ヨゼフィーヌです。深窓の令嬢でピアノが達者な母でした。父は気性が激しく短気で、音楽においては保守的。作曲家で指揮者のハンス・フォン・ビューローには「鼻持ちならない嫌な奴」と呼ばれ、あの、オレ様音楽家のワーグナーですらフランツを怖がっていたと言うのです。

跡取り息子は天才児

 シュトラウスがピアノを習い始めたのは4歳のとき。6歳からヴァイオリン、作曲も開始。神童でした。父は息子に古典的な音楽—バッハやハイドンを特に聴くよう命じます。その他に聴いて良しとされたのはベートーヴェン、メンデルスゾーン、シューマンにブラームス。現代音楽には近づくな。リストやワーグナーは悪魔である。こんな理由で音楽学校には息子を入れません。ギムナジウム(中等教育機関)に行かせつつ作品を書かせていました。

  1883年、ミュンヘン大学で哲学と芸術史を勉強していた19歳のシュトラウスは管楽合奏曲、『13の吹奏楽器のセレナード』(1882年作)をビューローに評価され、作曲家として認められました。20歳で新作『13の吹奏楽器のための組曲』を自身が指揮して指揮者デビュー。その後、宮廷楽団、宮廷歌劇場で地位を高めていきました。

妻一筋の恐妻家

 30歳で結婚。お相手は2歳年上のパウリーネ・デ・アーナというソプラノ歌手でした。その評判は傲慢、勝気で吝嗇家。お嬢さん育ちの姑を「たかだか酒屋の娘」と見下し、夫の小遣いは雀の涙。こんな逸話が残っています。20世紀のプリマ・ドンナと謳われた歌手、ロッテ・レーマンがシュトラウス家の庭でお茶を楽しんでいた日のこと。今までの晴天が一転、豪雨になりました。パウリーネはその天気に激怒し、夫に八つ当たり。怒涛の暴言。レーマンは宥めます。「でも、パウリーネ、どうしてご主人に雨を止めることが出来ましょう」。するとシュトラウスは不安げに彼女を振り向いて「ぼくを庇わないでくれたまえ。そんなことをすると、必ず事態を悪化させるのでね」。それでも家庭生活は円満で、彼はユーモラスな『家庭交響曲』を残しています。

お金が好きな音楽家

 妻に財布の紐をギリギリと縛り上げられていたシュトラウスの息抜きはカードゲーム。相当な腕前でした。お金を賭けて、小遣い稼ぎをしていたからです。

 公演で訪米中は空き時間にデパートで演奏し、音楽界とドイツ国民から避難の嵐。みっともない、守銭奴と言われますが、彼の返答は「妻子のために稼ぐのに何がやましい事があるでしょうか」。

 指揮は大抵片手でしていましたが、両手で頼まれると、「報酬を二倍にしてくれるならね」。

 作曲家の山田耕筰はベルリン留学中、シュトラウスのレッスンを受けようをしたものの、あまりの高額さに断念しています。彼の一か月の生活費が300マルク、レッスン料は1回200マルクでした。

おじいちゃんは被告人

 40代で優れたオペラを数多く作曲し、有名なものに『サロメ』、『エレクトラ』、『ばらの騎士』があります。1924年には60歳でウィーンとミュンヘン双方の名誉市民に。この年から勤め人としての指揮者をやめ、客演指揮と作曲を楽しんだシュトラウス。しかし、1933年、69歳で第三帝国音楽局総裁になったのがまずかった。ナチスの要請を受け、作曲や演奏活動したことが後に彼を戦犯にしました。シュトラウス自身、反ユダヤ政策には異を唱えていたのです。ただ、息子がユダヤ人と結婚したため、愛する孫が危険にさらされることを何よりも恐れていました。ナチス協力は保身だったのでしょう。84歳で非ナチ化裁判にかけられますが、無罪になっています。

 1949年、6月11日にドイツ、ガルミッシュの自宅で85歳の誕生日を祝った2か月後から体調を崩し、9月8日没。

 死の2カ月前まで指揮をしていた彼の最期の言葉は「皆さんによろしく」。名前負けせず、一生を音楽で貫いた人物でした。