8月生まれの音楽家 古関裕而

こんにちは。サンノゼ ピアノ教室の井出亜里です。

 数年前、『君の名は。』というアニメ映画が流行りました。筆者はてっきり、菊田一夫の映画か、以前NHK連続テレビ小説で放映されたものがアニメになったのだと勘違いしておりました。

 当時、レッスンに来た中学生二人がそのアニメの話をしていたので、つい口を挟んで「知ってる!私も中学生の時に見てたよ。マチコ巻きでしょ?」と言えども通じず。「きぃ~みぃ~の~名はとぉ~」と歌えども怪訝な顔をされる始末。後日、同世代の友人に「ふっるいわねー!そんなんじゃないの。高校生が主人公の青春アニメなの」と指摘されて全くの別物と知りました。

 さて、今月生まれの音楽家はマチコ巻きの映画、『君の名は』の主題歌を作曲した古関裕而です。

 古関裕而(本名は勇治)は1909年8月11日に福島県に生まれました。生家は裕福な呉服屋。小学校に入ると、音楽好きな担任教師から楽譜の読み方と唱歌を習います。 

 13歳で福島商業学校に入学。この頃から作曲家、山田耕筰の著作「作曲法」で独学を始めました。18歳で学校を卒業した後は銀行に勤務する傍ら、作曲を続けます。山田耕筰に作品を送って意見を求めたり、ロシアの作曲家、リムスキー=コルサコフの弟子だった金須嘉之進に師事しました。

 1930年、自作の舞踊組曲『竹取物語』ほか4曲をイギリスの楽譜出版社が主催したコンクールに送ると2位に入賞。これが福島の新聞で大々的に報道されました。それを読んで感銘を受けた声楽歌志望の内山金子がファンレターを送り、裕而と文通を開始。二人は翌年結婚。しかし2位入賞の真偽は現在も不明であり、裕而が出版社からの英文の手紙を読み間違えた説もあります。

 1931年、早稲田大学の応援歌『紺碧の空』を作曲。4年前に作られた慶應義塾大学の応援歌『若き血』に対抗して制作されたものでした。同年、山田耕筰の推薦により日本コロムビアの専属作曲家に就任。夫婦で上京し、裕而は作曲家の菅原明朗に2年間師事しました。

音の狂いは許しません

 裕而は3人の子供に恵まれました。息子の正裕氏によると、裕而は照れ屋で優しく、穏やかな人。たった一度の怒られた体験は正裕氏が幼い頃、コップに水を入れて音階を作り、それを叩いて遊んでいた時のみ。二階から降りてきた裕而にうるさいと怒られたそうです。

 物音や声は平気でも、調子はずれの楽器の音には我慢ができない。裕而は作曲の際、楽器を全く用いませんでした。全ての音を頭の中で組み立て、楽譜に起こしていたのです。調律されていない楽器の音ほど作曲の妨げになるものはなかったのでしょう。

同時進行で仕上げます

 1934年、25歳の時に歌謡曲『利根の舟唄』がヒット。翌年には『船頭可愛や』が大ヒットして作曲家としての地位を確立しました。 速筆多産で、1936年には阪神タイガーズの球団歌、通称『六甲おろし』を筆頭に主な歌謡曲だけでも7曲を作曲。

 20代後半からは数々のドラマ曲、市民歌、県民歌、校歌を依頼されます。第二次世界大戦中には軍歌や愛国歌、応援歌を作曲し、日本国民の士気を高めていったのです。

 5000曲を超える作品を残した裕而ですが、一番忙しい時は、一度に3曲を同時進行で作曲。3つのテーブルにそれぞれ五線紙を置き、そのテーブルをぐるぐると廻りながら作曲する。類を見ない作曲スタイルです。

依頼されたら断らない

 1946年、慶應応援指導部から応援歌の依頼が来ました。早稲田の応援歌『紺碧の空』が素晴らしい、我々もこれに匹敵する応援歌が欲しい、というのです。こうして『紺碧の空』の作曲から15年後、慶応の応援歌『我ぞ覇者』が誕生しました。これに黙っていないのが早稲田。翌年には裕而に新たな応援歌を依頼し『ひかる青雲』が誕生しました。もはや応援歌の早慶戦。

 1948年に作曲した夏の甲子園の歌『栄冠は君に輝く』や、戦争の慰霊と鎮魂を歌った1949年作曲の歌謡曲『長崎の鐘』は全国どこでも流れる国民的なメロディになりました。

 1952年にはNHK ラジオドラマ「君の名は」の主題歌を作曲。この曲は「君の名は」の作者菊田一夫が作詞しました。以後裕而と菊田は名コンビとして飛ぶ鳥を落とす勢いの歌謡曲ヒットメーカーになっていきます。

 こんなに売れてもなお、裕而は依頼のほとんどを引き受けたといいます。ある時、北海道の小学校の校長先生から手紙が届きました。裕而の歌が大好きなのだが、校歌を作って貰う予算がない。それでも、もしやと思って手紙を書いたとのこと。裕而は「お礼は不要です」と校歌を作って送りました。

 その後、校長先生から一斗缶入りの小豆が届きます。その小学校の生徒たちが、一握りづつの小豆を家から持ち寄り、お礼にしたものでした。この小豆で裕而の妻がお汁粉やおはぎを作り、甘党の彼は大変喜んだそうです。

 1964年、東京オリンピックが開催されました。裕而は日本オリンピック組織委員会とNHKから”日本的な”入場行進曲の依頼を受けます。雅楽や民謡を取り入れようかと迷った裕而ですが、若者の、しかもスポーツの祭典には相応しくないだろうとの思いから、曲の終盤に『君が代』の旋律を忍ばせた明るい『オリンピック·マーチ』を作曲しました。

盟友去って筆止まる

 1969年、60歳の時に紫綬褒章を受賞。1972年には札幌冬季オリンピックの行進曲『純白の大地』を作曲しましたが、以来、筆が進まなくなりました。それは1973年に朋友の菊田一夫が66歳で亡くなったから。裕而は虚脱状態に陥り、自伝「鐘よ鳴り響け」でこう書いています。

 ”ああ、寂寞。私の心に空洞ができた。それが日増しに大きくなっていく。オペラもミュージカルも、舞台音楽も、何もかも――やりたいと思っていたものが、みんなできなくなってしまった。” 菊田ほど、裕而に作曲の意欲を湧かせる人物はいなかったのでしょう。

 1977年には夏の甲子園の開会式に招待されます。開会旗掲揚と同時に裕而が作曲した『栄冠は君に輝く』の大合唱が起こり、裕而はこの歌声に感激しました。また奇しくもこの大会では、裕而の母校、福島商業高校が甲子園初勝利を収め、自作の校歌を聴くことができたのです。

 1989年、脳梗塞により8月18日に80歳で亡くなると、彼の棺は早稲田と慶応の応援団、そして両校の校旗に見送られて葬儀場に運ばれました。

 校歌、軍歌、応援歌、歌謡曲と常に人の心に寄り添う歌を作った音楽家。彼の歌は今でも私たちの耳に入ってくるのです。