6月生まれの音楽家 ハチャトゥリアン

 こんにちは。サンノゼピアノ教室の井出亜里です。

 レッスンに来て早々「はぁ」とため息をつく5年生。自分のクラスがドッヂボールに弱いのだそう。
 ドッヂボール。それは鬼畜の球技。真冬、凍てついたボールを剥き出しの太腿に当てられた時の痛みときたら尋常ではない。
 外野の生徒がコート内で逃げ回る生徒を狙う時の目つきは、獲物を狙う肉食獣、あるいはスナイパーのそれ。「みんな仲良く」がモットーの小学生に「やるかやられるか」的な目つきを許して良いものか。それにボールを投げる時のあの反動。親の仇か。他人を撃って自分は助かるその精神もいただけない。スポーツマンシップとは。こんな球技を二度としなくても良い筆者は心から彼女に同情したのでした。

 さて、6月生まれの音楽家は『剣の舞』で有名なハチャトリアンです。
アラム・イリイチ・ハチャトゥリアンは1903年6月6日にグルジアの都市、チフリスに生まれました。両親は共にアルメニア人。父親は製本業を営み、母親は5人の子どもたちに、アゼルバイジャンやアルメニアの民謡をよく歌ったそうです。チフリスは民族音楽家や吟遊詩人が集まり、民謡に溢れる地域だったために、”歌う町”とも呼ばれていました。ハチャトゥリアンは幼い頃から民謡を吸収して育ったのです。

 10歳になると商業学校に入学。ブラスバンドに入って演奏をしていましたが、専門的な音楽教育は受けたことがありません。
 1921年、18歳の時に故郷を離れ、旧ソヴィエトのモスクワに移りました。翌年、兄と散策中にモスクワ音楽院の前を通りかかったハチャトゥリアン。演奏会をしていたので何の気無しに入ったのですが、そこで聴いたベートーヴェンとラフマニノフの音楽に衝撃を受け、音楽家になることを決意。19歳でした。同年、グネーシン中等音楽専門学校を受験し、新設のチェロ科に入学。チェロは弾けず、楽譜も読めませんでしたが、民族楽器を巧みに弾きこなし、100曲近い民謡を歌えたことが考慮されたのです。後に作曲科へ転向。ここで音楽の基礎を学びました。

先生がデビューと妻を連れてくる

 1929年、26歳でモスクワ音楽院に入学。作曲家のニコライ・ミヤスコフスキーに師事します。1932年に作曲した『クラリネットとヴァイオリンとピアノのためのトリオ』は翌年の1933年にモスクワ音楽院で初演されました。更にミヤスコフスキーの友人、作曲家セルゲイ・プロコフィエフの助力により、パリでも演奏、出版。このヨーロッパデビューを叶えた同じ年にニーナ・マカーロワと結婚。彼女もミヤスコフスキーのクラスにいた学生です。良縁はいつも指導教授から。1934年、31歳で音楽院を卒業しました。

 1937年、34歳の時に「ソヴィエト音楽祭」がモスクワで開催され、ハチャトゥリアンの『ピアノ協奏曲 変ニ長調』が初演されると、熱狂的な大喝采。”巨匠的技巧”を持つ作曲家と絶賛されたのです。

一夜で完成、剣の舞

 1941年ごろ、レニングラードオペラバレエ劇場がバレエ『ガイーヌ』の作曲を依頼。ハチャトゥリアンは修正を重ねて1942年に完成させます。ところが、鑑賞を心待ちにしていた初演前日、突然、1曲追加の要請が。午前3時に取り掛かるが何も心に浮かばない。新しいリズムが欲しい。指で机を叩く。締め切りに追われる心。机を叩き続けるせわしない指。数時間後、指が止まりました。『剣の舞』のリズムでした。傑作は一夜で完成したのです。

 『ガイーヌ』の爆発的な成功により、ハチャトゥリアン はソヴィエト国家賞を受賞。世界的な名声と「20世紀を代表するソヴィエト現代作曲家」の称号を手に入れました。

いかつい男はおもちゃ好き

 彼は大柄でした。唯一の日本人弟子である作曲家の寺原伸夫氏は書いています。”何から何まで作りが大きい。巨大な体躯、太いまゆ、今にもこぼれ落ちそうな大きな目、高い鼻、ぶ厚いくちびるといったぐあいである。” しかし、そんな外見とは裏腹に、子どもっぽい一面もありました。

 自宅に弟子たちが来ると、表紙を開けると電流が流れるしかけの本ー蓋を開けた途端にひとつ目小僧が飛び出すものーなどで驚かしては笑い転げていたのだとか。

 前述の寺原氏には、銀座にある、巨匠お気に入りの玩具屋で仕掛け玩具を買ってくるようにおねだり。寺原氏が持ち帰ったお土産に大はしゃぎしていたといいますから、童心を失わない人だったのでしょう。

ハチャトゥリアンは大食漢

 食べることが大好きだったハチャトゥリアン。お好みのエプロンをして料理をすることもありました。特に果物には目がなく、弟子たちに「作曲家になっていなければ、果物屋になっていただろう」と言って笑わせたことも。

 新聞記者の長井康平氏は『ハチャトゥリアンの前掛け』というエッセイの中で思い出話を語っています。
 長井氏がインタビューのために訪問すると、玄関から巨体を覗かせた巨匠 。精悍な顔の下には不釣り合いな可愛いナプキンがぶら下がっており、それが赤ちゃんのよだれ掛けのように見えて長井氏は吹き出しそうになったそうです。
 「今食事中なのでちょっと待ってくれないか」と真面目にいう声色は「今作曲中だから、邪魔しないでくれ」というのと同じ調子。”この人にとって食事することの意味が大きいのがよくわかった”と回想するのでした。

 1954年にバレエ曲『スパルタクス』を作曲。この曲により、レーニン賞を受賞。この頃から、作曲よりも後進の指導と指揮に力を入れていきます。

 1963年に来日し、自作の曲だけをハチャトゥリアン自身が指揮する演奏旅行を行いました。「日本は、私たちの愛している音楽のように美しい」という言葉を残しています。

 1976年4月の再来日公演が東京、横浜、名古屋と決定し、新聞にも印刷されましたが、3月末にハチャトゥリアンは腎臓疾患で緊急入院、手術。このため急遽公演は中止。これ以降彼の健康状態は悪化していきます。

 1978年5月1日に74歳で亡くなると、「私の音楽を愛する大勢の人たちと別れをしたい」という遺言通り、彼の葬列は立つ場所もないほどひしめきあう大群衆に見送られるのでした。

 民謡や名も無き郷土の音楽から、世界的に認められる音楽を紡ぎ出した作曲家。40を超える国を巡って、世界中に自身の音楽を届けたハチャトゥリアン のお話でした。