4月生まれの音楽家 宮城道雄

 “4月の雨は5月の花を連れてくる”という英語の諺があります。しかし、4月の雨がもたらすのはそれだけではない。

 雨の翌日の花粉。ティッシュを秒速で消費。花粉症持ちが集まれば、「今年は特に酷い」「例年の比ではない」「過去最悪」などと、赤ワイン、ボジョレー・ヌーヴォーのキャッチコピーと対極をなす言葉が飛び出します。4月の雨は赤い鼻も連れてくるのです。

 さて、今月生まれの音楽家はお正月の定番曲、『春の海』の作曲者、宮城道雄。

1894年4月7日、兵庫県神戸で生まれました。生後半年で眼病を発症。4歳のときに母親と離別。8歳で失明。再婚した父は道雄以外の子どもと妻を連れて朝鮮へ。道雄を慈しみ育てたのは祖母でした。箏なら盲人の仕事になる。祖母の勧めで8歳から箏を習います。修行は過酷でした。師匠の教えを忘れようものなら、思い出すまで家に帰れず、食事も与えられず。寒稽古での“千遍弾き”は真冬、窓を開け放した室内で、同じ曲を幾日も弾き続ける修行。寒さで指が動かないと、冷水に指をつけて再び稽古。指が裂ける。苦行に耐え忍ぶこと3年、わずか11歳で免許皆伝となりました。

 ある時、朝鮮から手紙が届きます。父が暴漢に襲われ大怪我を負ったとのこと。彼は道雄に援助を求めてきたのです。道雄は祖母と共に朝鮮に渡り、13歳で一家の大黒柱になりました。

 記憶していた曲に飽きた道雄は作曲を開始。弟が音読していた、詩人大和田建樹の短歌を歌詞として、『水の変態』を作曲したのは14歳のときでした。

 この曲と道雄を絶賛した人物が、訪朝中の政治家、伊藤博文。道雄を上京させ、演奏と作曲活動を支援すると約束。しかし伊藤博文が暗殺され、計画は全て消え去ったのです。

年上女性に縁がある

 16歳のときに祖母が死去。嘆く彼の前に、一人の女性が現れました。16歳年上のシングルマザー、喜多仲子。彼女とその娘と3年間同居した後、1913年に結婚。道雄19歳、仲子35歳でした。

 1917年、道雄は一家で上京。早速『水の変態』を披露するも、邪道、西洋音楽の猿真似、と酷評の嵐。実際、道雄の耳には常に、幼い頃に神戸で聞いた外国音楽の調べがありました。

 この頃の生活は極貧。仲子は39歳の若さで肺結核により死去。継娘の安子も間もなく亡くなりました。

 そのとき、一人の弟子が手を差し伸べます。夫と離婚後、独り身でいた吉村貞子。道雄は先妻の死から半年後の1918年に再婚。道雄24歳、貞子29歳でした。

 道雄の作品が、洋楽作曲家や作家、国文学者から注目され始めたのはこの時期です。彼らの後押しを受けて作品発表会を催し、作曲家としてデビュー。作家の内田百閒はこうした縁で弟子入りし、箏では道雄が、随筆では百閒が師匠という無二の親友になりました。

お師匠さんはお見通し

 道雄に対して隠し事はできぬ、というのは弟子たちの常識。稽古中、姿勢を崩せば「ちゃんと座って」。指輪をつけて箏を弾くと「外しなさい」。悩み事を抱えて稽古を受けると「心配事があるのでは」。

 道雄は随筆『声と人柄』の中で綴ります。“私は人の言葉つきで、その人が今日自分に、どういう用向きで来たかということが、あらかじめわかる。その人がどういう態度をしているかということも、自然に感じられるのである”と。

 暑い夏の日、ある人が尺八を合わせに道雄の家を訪れました。家人がいないと知った尺八奏者は次第に着物を脱いでいき、遂に裸で演奏。音合わせ後、道雄が「今日のような暑い日には、裸で演奏したら涼しいでしょうなあ」と言うと、尺八奏者はほうほうの体で逃げ帰ったとか。内田百閒、川端康成、佐藤春夫にも称賛された道雄の随筆は、数冊出版されています。

世界に広がる『春の海』

 1925年、日本で始まったばかりのラジオ放送に出演。その後、海外との交歓放送により、道雄の音楽は世界に広がりました。それと同時に新曲を次々に発表し、新しい箏や胡弓の考案と制作も行っています。

 1929年に箏と尺八の二重奏曲『春の海』を発表。1932年にはフランスのヴァイオリニスト、ルネ・シュメーが彼との共演を求めて来日。彼女は、尺八部分をヴァイオリンに置き換えた『春の海』を道雄と共演し、演奏会は大成功。録音は日本、フランス、アメリカで発売されたのです。1937年、43歳のときに東京音楽学校(現在の藝大)教授に就任。1953年にはフランスとスペインで行われた国際民族音楽舞踊祭に日本代表として参加し、一位を獲得。その後イギリスで作曲した『ロンドンの夜の雨』はBBCから英国全土に放送されました。

自殺か他殺か死神か

 1956年、大阪公演に向かうため、深夜の寝台車に乗っていた道雄は走行中の電車から転落。6月25日に死去。享年62。事故として処理されましたが、自殺、他殺、死神説が囁かれました。

 死神説。死の半年前から、周囲の人々が感じた道雄の異変を「死神に憑かれた」せいだというもの。道雄の顔に陰が見える、と本人と周囲に伝えていた宮城喜代子。(妻の姪。内弟子)「私はもう長くない。後は頼む」と言われた弟子の松尾清二。死の一週間前に「この曲はもう稽古してあげられないよ」と言われた藝大生、佐藤。普段は決して苛立たない道雄に「はやくしっかり覚えてもらわないと困る」と叱責された演奏家、上木康江。

 箏を作らせたのに「出来上がる頃には私はいないよ」。服を新調しても「もう長くないから高いのはいらない」。こうした言動が死神説の原因でしょう。死の真相は不明です。今は東京上野、谷中の墓地に眠る道雄。400を超える箏曲を作曲し、箏に生涯を捧げた“現代邦楽の父”でした。