7月生まれの音楽家 芥川也寸志

 こんにちは。サンノゼピアノ教室の井出亜里です。

 太宰治の『斜陽』を読む中3年女子。アメリカ人の友達に「オーマイガー、日本人なのにダザイ読んだことないの?読んだほうがいいよ!」と勧められたそう。紀伊國屋で入手した『人間失格』と『斜陽』を読んで、眉間にしわを寄せる。人種間における太宰思想の逆輸入を目撃しました。

 さて、今月生まれの音楽家は芥川也寸志。太宰が尊敬した芥川龍之介の三男です。

 芥川也寸志は1925年7月12日に東京の田端で生まれました。2歳の時に父が自殺。5歳ごろから父親の書斎にあった蓄音機で遊びはじめます。レコードの大半は、ロシアの作曲家ストラヴィンスキーのもの。代表作である『ペトルーシュカ』や『火の鳥』を繰り返し聴き、その旋律を口ずさむ幼稚園生でした。10歳の時に東京音楽学校(現在の藝大)の児童科に入りたいと母にせがむものの、失敗。

 16歳の時に再度、母親に音楽で身を立てたいと懇願。基礎から音楽を学びました。2年間、作曲とピアノの勉強をして1943年、18歳の時に東京音楽学校の予科作曲部を受験し、合格。50数名の合格者の中で、最下位での入学でした。入学後まもなく校長に呼び出されます。「お前は偉大な芸術家だの倅だ。···な?」也寸志がハイと答えると、校長は受験者全員の成績表の中で一番下にある彼の名前を指差さし、「ビリ!」と大声で叱責したのでした。

 1944年、本科作曲部在籍中に戦争が激しくなり、学徒動員が行われていました。也寸志は音楽学校を休学して陸軍戸山学校の軍楽隊に入隊。翌年、陸軍戸山学校を首席で卒業すると”作曲係上等兵”という、実戦力には到底ならぬであろう任務に就きます。彼と、後に作曲家になる團伊玖磨を含めた計4人の作曲係は、多くの隊歌や連帯歌を作りました。しかし8月の終戦を迎えて音楽学校に復学。こちらも首席で卒業。ビリからの名誉挽回を果たしたのです。

 御令息はモテ男

 眉目秀麗、溢れる才能、優雅な物腰、洒落た服。これでモテないわけがない。女子学生や、オーケストラの女性団員の注目の的でした。

 1948年、23歳で管弦楽曲『交響三章』を作曲。同年、東京音楽学校で知り合った、声楽科卒の山田沙織と結婚。娘2人に恵まれるも、9年後に離婚。作曲の邪魔になる、と也寸志は妻が家庭内で歌うことを嫌がったため、彼女は音の出ない絵画の道に進み、画家として才能を開花させました。

 1960年、35歳の時には女優の草笛光子と再婚。彼女の舞台が終わった後、息子と光子の交際を知っていた也寸志の母が楽屋を訪ね、「光子ちゃんは、こんな感動的な舞台をやれたのだから、もうお嫁に来てください」と頼み込んだそう。この結婚は2年足らずで破綻します。

 1970年、45歳でエレクトーン奏者の江川眞澄と再婚。この結婚は也寸志が亡くなるまで続き、息子に恵まれました。
 華やかな恋愛の一方で、泊まった旅館の部屋に也寸志のストーカーが乱入して服毒自殺を遂げるという災難に遭ったのは、二枚目ゆえの宿命でしょうか。

 良家の息子が密入国

 1954年、29歳の也寸志が周囲を驚嘆させました。日本と国交の無かったソ連に自身の作品を携えて単身密入国したのです。子どもの頃に口ずさんだロシア音楽、特にストラヴィンスキーに憧れてのことでした。これは立派な不法行為。スパイとしてシベリア送りか、粛清か。しかし幸運なことに彼は作曲家として迎えられました。強運は続きます。ソ連の大御所音楽家、ショスタコーヴィチ、カヴァレフスキー、ハチャトゥリアンと出会い、親交を深めることができたのです。その上、持参した『交響三章』をソヴィエト国内で出版して貰うという破格の待遇。也寸志はソ連で自作を出版した初の日本人作曲家になりました。

 テレビに出たら人気者

 30代に入ると、オペラ、テレビドラマ、映画音楽の作曲に加えて指揮やアマチュア·オーケストラの設立、ラジオやテレビの出演と多忙を極めていきます。

 40代では作曲の傍ら、合唱団を結成して指導。また日本作曲家協議会副委員長、ヤマハ音楽振興会専務理事、サントリー音楽財団理事を務め、日本音楽界の顔的存在となりました。

 50代では映画『八甲田山』や『八つ墓村』の作曲や教育論の執筆を行いながら、NHKの音楽番組の司会を黒柳徹子と務めます。上品な風貌、わかり易く柔らかな語り口でお茶の間の人気者に。音楽著作権を守る活動も精力的に行い、日本音楽著作権協会(JASRAC)理事長に就任。

 各地のオーケストラからは指揮の依頼が殺到です。宮城フィルハーモニー創設者の片岡良和氏は、宮城フィルの指揮を頼みたいと、蕎麦好きな也寸志を有名な店に招待し、蕎麦の力を借りてようやく口説き落としたとインタビューで語っています。

 ダンディな男は子ども好き

 年齢を重ねてもダンディで最新の外車を乗り回し、変わらず女性にモテた也寸志でしたが、意外に子ども好きな一面も。オーケストラの合宿があると、楽団員はその家族も一緒に泊まり込むのです。

 彼らの子どもたちに也寸志は「お味噌の中には何が入ってる?」(答えはファ)「お空の上には何がある?」(答えはシ)となぞなぞを出したり、一緒に遊んでいたといいます。

 ”ことりはとっても歌が好き”で始まる『ことりのうた』や、”きゅっきゅっきゅと靴を磨こう”の『きゅっきゅっきゅう』などの童謡も也寸志の作品。多くの童謡を残しているのです。

 1985年、60歳の時に科学万博つくば ’85のために『EXPO ’85讃歌”ここは宇宙”』を作曲。同年、紫綬褒章を受賞。

 晩年は肺がんにより、健康を損いながらも作曲と指揮を続けましたが1989年1月31日に63歳で亡くなりました。作曲家、指揮者、教育者、JASRACの理事、テレビの司会と獅子奮闘の活躍をした音楽家でした。