5月生まれの音楽家 イサーク・アルベニス

 こんにちは。サンノゼピアノ教室の井出亜里です。

 パソコンの誤変換が甚だしい。「ソナタ程度のレベル」と書きたいのに「其方程度のレベル」と、殿様級の頭の高さ。四分音符は渋音符、カルメンが軽麺になったりする。不便を感じつつ直していましたが、昨日初めて見た ” 慈悲出版 ” という変換に「上手い」と思わず声が漏れました。理由はこのコラムの終わりでどうぞ。

 今月生まれの音楽家はイサーク・マヌエル・フランシスコ・アルベニス・イ・パスクアル。略してイサーク・アルベニス。

 1860年5月29日、スペイン北東部のカンプロドンという町に生まれました。早くからピアノの才能を示したため、父親は息子を神童に育てようと英才教育に奔走。結果イサークは4歳の時にバルセロナの劇場で初舞台を踏み、天才児と謳われました。

話題づくりの幼年期

 天才によくある破天荒な逸話。アルベニス自身が語ったものは以下の通りです。逸話その一。6歳のときにパリ音楽院の入学試験を受けたが、ボールを投げて待合室の窓ガラスを破損。「幼稚すぎる」との理由で入学を断られる。逸話その二。10歳でマドリード王立音楽院に入学するも度々寄宿舎から逃亡。12歳のときに南スペインの港町、カディスから密航して南米に渡り、アルゼンチンや隣国で演奏会を開く。逸話その三。15歳のとき、再び大西洋を渡ってプエルトリコに到着。この地とキューバで演奏会を開く。

  その一は事実ではないとされています。その二は部分的に、つまり音楽学校に入学し、ピアノを3年間学んだことは事実ですが、密航は事実ではありません。真実なのは、その三。父親がキューバの首都、ハバナの検疫長官に就任したため、15歳のときにスペインを離れ、キューバとプエルトリコの各地で演奏旅行をしています。

 これらの武勇伝はアルベニス本人と父親によって、演奏会の話題作りになるよう、宣伝用として作られたのです。

努力を惜しまぬ青年期

 十で神童十五で才子二十過ぎれば只の人。成長し、神童の賞味期限が切れました。幼さと武勇伝を売りにはできないお年頃。修行の道へ。1876年、16歳でベルギーのブリュッセル王立音楽院に入学し、3年間ピアノと作曲を学びます。1979年、19歳のときにはピアノ科のコンテストで1位を獲得し首席で卒業。意気揚々とスペインに帰国して、バルセロナで凱旋コンサートを開催しました。

 1883年、マドリードを拠点にピアニスト兼作曲家として活動していたアルベニス。二つの転機が訪れました。一つはフェリぺ・ペドレルとの出会い。彼は「スペイン国民楽派の父」と呼ばれる名教師、音楽学者、音楽理論家、作曲家です。マヌエル・ファリャやエンリケ・グラナドスなどの著名なスペイン作曲家を育て上げた人物でした。ペドレルの助言を得て、アルベニスは祖国の民謡や、スペイン独特の音とリズムを基に作曲していきます。

 もう一つはロシーナ・ホルダーナとの結婚。3歳年下の彼女はアルベニスの弟子。二人の間には5人の子どもたちが生まれ、そのうち2人が成人しました。第23代フランス大統領、ニコラ・サルコジの二番目の妻はアルベニスの玄孫であるセシリア・アルベニスです。

スペイン愛が止まらない

 1886年、ピアノ曲『スペイン組曲』が完成。スペインを放浪していた時に見た情景からインスピレーションを得たといいます。スペイン各地とキューバをタイトルにした8曲からなる作品。

 1890年、ピアノ曲、組曲『エスパーニャ』作曲。こちらは民謡や舞曲をテーマにした6曲から構成されます。2曲目の『タンゴ』が有名。

 1894年、パリに移住。音楽学校で教鞭を執りながら、パリの音楽家たち、特にエマヌエル・フォーレやクロード・ドビュッシーと親交を深めました。

 母国スペインを ” mi morena ” (小麦色の肌を持つ私の恋人)と呼んだアルベニス。スペインからパリにやってきた人には「私のモレーナは元気だった?」とよく尋ねたそう。時には「つれないモレーナ」という言い方も。彼の音楽を評価しないスペインとその音楽界には、言葉にできない想いがあったのでしょう。

 1897年には『ラ ・ベーガ』(平原)を作曲。アルベニスによる演奏を聞いたドビュッシーは、感激のあまり「今すぐグラナダに行きたい!」と叫んだとか。スペインを訪れることはなかったものの、ドビュッシーは1903年に『グラナダの夕べ』というピアノ曲を作曲しています。

死んでも彼女は振り向かない

 1900年代から腎臓病が悪化し、演奏活動と音楽学校での教授は不可能になりました。スペインに帰国して静養するも、不調。再びフランスに戻ります。1905年から1908年にかけて作曲に専念し、全12曲を4巻にまとめたピアノ組曲『イベリア』を作曲。イベリア半島、つまりスペインを意味する作品です。進行する病と闘いながら、アルベニスは祖国の情景や自身の郷愁を五線紙に綴りました。世界に通じるスペイン音楽を作ること。これが、彼の成し遂げるべき使命でした。死の床にあった彼にはフランス政府からレジオン・ドヌール勲章が贈られます。

 1909年、『イベリア』第4巻の初演からわずか3ヶ月後の5月18日に48歳で死去。この知らせを受けても尚、スペインからは何の栄誉も送られません。祖国は最期まで ” つれない恋人 ” だったのです。

 ドビュッシーはアルベニス亡き後、いつもピアノの楽譜台に『イベリア』の楽譜を乗せて友人を思い出しては弾いていたそうです。

 幼少期は眉唾な武勇伝で周囲を沸かせたアルベニスですが、最後は彼の人柄が垣間見られる実話で終わりにしましょう。

 エルネスト・ショーソンはフランスの音楽家でアルベニスの友人です。アルベニスはショーソンの作品、『詩曲』の手稿をドイツの出版社に持ち込み出版を頼みますが、断られました。友人を落胆させたくなかった彼は『詩曲』を自費出版。しかもショーソンが44歳で亡くなるまでその事実を隠して、疑われぬように印税まで渡していたというのです。

 友人にも故国にも一途な音楽家、アルベニスのお話でした。