10月生まれの音楽家 ヨハン・シュトラウス

 こんにちは。サンノゼピアノ教室の井出亜里です。

 「次に弾きたい曲あるんだよね」とYoutubeで聴いた曲について話していた4年生のAちゃん。しかし題名が思い出せない。来週までにちゃんと書いてくる、と帰って行きました。その翌週に持ってきたメモ。

魚人のゆめ

ぎょ・・・じん。いやこれ、『人魚の夢』では?「あー間違えた。そう、人魚」と軽く流す小学生ですが、漢字の入れ替えで天地が逆になるほどの違いです。

 人魚なら痩身美女のイメージなのに、魚人だと男性、しかもちょっと小太りを想像してしまうのは筆者だけでしょうか。

 さて今月生まれの音楽家は、“ワルツの王”と言われたヨハン・シュトラウス二世です。

お父さんは “ワルツの父”

 ヨハン・シュトラウスは1825年10月25日にオーストリアのウィーン近郊で生まれました。四男二女の長男です。母は居酒屋の娘でギター弾き。同姓同名の父は当時
”ワルツ王”と謳われた大活躍の作曲家、指揮者、ヴァイオリニストでした。(死後は
”ワルツの父”と呼ばれることに。)しかし音楽家の生活は厳しい。音楽家だけにはなるな、それが子供たちへの厳命でした。

 物心つく頃、ピアノに夢中になったヨハン。見つけた父はこれを禁じます。それならば、と近所の友達にピアノを教えてお金を稼ぎ、そのお金でヴァイオリンを手にしたのです。父の楽団の第一ヴァイオリン奏者にこっそりレッスンを受け、瞬く間に上達していきました。後に父がそれを発見、ヴァイオリンは叩き壊されてしまいます。

 10代になったヨハンは禁止されても音楽に没頭。怒る父と息子を庇う母は遂に離婚。父は愛人のもとに。ヨハンは18歳の時にオーケストラを編成して演奏会を開きます。作曲家、指揮者としてのデビューでした。憤った父は裁判を起こして息子の活動を妨害。新聞社を買収して中傷記事を書かせようと試みる、自身の楽団員には息子の味方をさせぬよう圧力をかけるなどと、なりふり構わず陰湿な工作をしたのですが、1844年、デビューコンサートは大成功しました。

世界を制する三兄弟

 デビューと同時に父のお株と“ワルツ王”の称号まで奪ったヨハン。人気も仕事も急上昇です。
 1849年、父が愛人宅で急死。遺体は置き去り。ヨハンと母が回収に行かねばなりませんでした。

     多忙な上に、父の仕事まで引きついだヨハンは過労死寸前。考えた末、弟ヨーゼフを代役に仕立て上げることにしました。工業学校卒で技師をしていた内気で病弱なヨーゼフは猛反発。しかし、良く言って伊達男、悪く言えばチャラ男の兄と一家のボスである母に説得されては勝ち目もありません。直ちにヴァイオリン、指揮、作曲を叩き込まれ、4年後の1853年に指揮者デビューになりました。

 才能はあるが、ヨーゼフは体が弱い。もう一人代役を立てよう。そんなヨハンの思惑から、遂に末弟エドワルトまでかり出される始末。彼の指揮者デビューは1861年です。こうして三兄弟でうまく仕事を回し、ヨーロッパはもちろん、ロシア、アメリカまで演奏旅行したのです。ワルツと言えばシュトラウス。その名は世界中に知れ渡り、“シュトラウス王朝”とまで言われるほどになりました。

成功収めたパリ万博

 1867年、傑作『美しき青きドナウ』を作曲。オーストリアの“第二の国歌”とも言われるこの曲、実は1866年にプロイセンとの戦争に負けたオーストリアを元気づけるために、ウィーン男声合唱協会から注文されたものでした。1867年2月にウィーンで初演されるも今一つの盛り上がりでしたが、その3ヶ月後にパリ万博で、管弦楽だけで演奏したところ、大評判。以来、世界中で演奏されることになりました。

堅物男の大親友

 生涯に3回の結婚をし、恋人はどこにでも。華やかな女性遍歴を持ち、社交界に君臨したヨハン・シュトラウス。堅物で人嫌いの音楽家、ヨハネス・ブラームスと親友であったことは驚きです。夏に同じ避暑地を訪れていたことから始まった親交でした。ブラームスよりも7歳年上なのに、ヨハンの髪は豊かで真っ黒、すらりとした背筋にネクタイと礼服でいつでも舞台に立てる格好。それに対してブラームスは浮浪者と間違われるボロ服に、白髪と仙人のような長い髭。

 しかし家に帰り、髪から染め粉を落とし、コルセットを取れば、そこには白髪の疲弊したヨハン老人の姿があるので
した。

 1899年、無理を押してサイン会に出席した夜から肺炎の症状が出て、6月3日に亡くなりました。妻の「もうおやすみになったら?」の言葉に、彼女の手にキスをしながら「どのみち、そうなるよ」。これが最期の言葉でした。享年73。ウィーン中央墓地で親友ブラームスの隣に眠っています。