11月生まれの音楽家 マヌエル・デ・ファリャ

 こんにちは。サンノゼピアノ教室の井出亜里です。

 「一生、恨んでやる」。レッスン開始早々、物騒な発言で筆者を動揺させたのは小学生の女の子です。彼女は1週間前、「同じクラスでボーイフレンド、できた」と満面の笑みを浮かべていたのですが・・・。

 お昼はいつも彼と二人でお弁当を食べて、「すっごく仲いい」のだそう。では、何が問題かというと、ハロウィンパーティ。彼から貰った招待状には「ご兄弟も是非どうぞ」の文字があり、それを見た中学生の兄がついてきた、とお怒りだったのです。当のお兄さんは「おれ、暇だったからさ」。
 恋する乙女の琴線を熊手で逆撫でした兄に対する冒頭の発言。彼の仮装は熊でした。

 さて、今月生まれの音楽家はマヌエル・デ・ファリャ。情熱の国の音楽をその国外に広げた、スペイン最大の音楽家です。

ピアノが命の幼少期

ファリャは1876年11月23日に、スペイン、アンダルシア地方のカディスという港町に生まれました。父は裕福な商人で、音楽が趣味、母はピアノに長けていて、ショパンやベートーヴェンをよく弾いていました。

 ファリャは4歳から、母にピアノを習います。9歳で演奏会デビュー。この頃から音楽理論も学び始めました。

 片時もピアノから離れないファリャ。こんな逸話が残っています。

 ある年、町にコレラが流行しました。ファリャと家族はセヴィリアのホテルに避難します。しかしファリャはホテルにいても、自宅同様の猛練習。朝から晩までピアノの音に悩まされたホテルの宿泊客から苦情が殺到したというものでした。

 1900年頃、家族は首都マドリードに移り住みました。ファリャはマドリード音楽院でピアノと作曲を学びます。スペイン音楽を世界に広めたい、イタリアやフランスのレベルまでスペイン音楽を高めたいと1905年、29歳の時にオペラ『儚き人生』を完成させ、これが王立芸術アカデミーコンクールで優勝。ところが上演されません。王立歌劇場側は、イタリアオペラ史上主義だったのです。スペインにおいて、スペイン人が作曲したオペラ、しかもコンクールで優勝した作品は上演されず、イタリアオペラが上演される。この出来事が、彼にフランスに行こうと決心させたのでした。

そうだ パリ、行こう。

 当時、多くのスペイン人音楽家がフランスを目指しました。隣国ながら、音楽では最先端の国だったからです。彼が渡仏したのは31歳のとき。

 パリでファリャは音楽家の友人を得ました。『ボレロ』で有名なモーリス・ラヴェル、『魔法使いの弟子』を作曲したポール・デュカス、そして『ベルガマスク組曲』や『牧神の午後への前奏曲』で知られるドビュッシー。

 ファリャが初めてドビュッシーを訪ねたときの話。緊張した彼を待ち受けていたのは、ドビュッシーの辛辣な物言いでした。「フランス音楽がお好きなんですか?私は嫌いですがね」。

 しかし、デュカスの尽力により、『儚き人生』が1913年にニースで初演され、大成功。続いてパリのオペラ・コミック座での上演も大成功すると、ドビュッシーもファリャの才能を認めて尊敬し、助言をくれる親しい友人となりました。

バレエの世界でピカソとコラボ

 1914年、第一次世界大戦勃発でファリャはスペインへ帰国。1918年にドビュッシーが他界すると、その死を悼んで2年後に『クロード・ドビュッシーの墓碑銘のための讃歌』を作曲。生前、ドビュッシーから「スペイン人作曲家として成功したいならギターの曲は作るな」と言われていたファリャ。この教えを破り、敢えてギターの音色でスペイン人として弔意と敬意を表したと言われています。

 1917年、40歳のときにパントマイム劇『お代官と粉屋の女房』を発表。これが2年後、バレエ・リュス(ロシア・バレエ団)創設者のセルゲイ・ディアギレフの依頼でバレエ曲『三角帽子』に改作されます。ディアギレフがプロデュース、ファリャが作曲、パブロ・ピカソが舞台、衣装デザイン担当という豪華な顔ぶれ。初演は1919年。ロンドンのアルハンブラ劇場で大成功を収めました。

終の住処はアルゼンチン 

 1936年、スペイン内戦が始まりました。このとき起こったある悲劇により、ファリャは再び祖国を去る決意を固めます。詩人であった親友が銃殺されたのでした。独裁政権への反対運動をしていた親友の死。ファリャは60歳目前でした。この3年後、アルゼンチンに亡命します。

 スペイン内戦、親友の死、そして老年期の転居は彼の健康を著しく蝕みました。この時期から数年間、ファリャは寝たきりの生活に。独裁政権の総統フランシスコ・フランコからたびたび帰国要請がありましたが、断固としてこれを拒否しました。懐かしい故郷に帰るより、異国で療養しながらスペインを想って作曲をすることを選んだのです。

 1946年11月14日、メイドが朝食を運んできたとき、彼は既に息絶えていました。70歳の誕生日まで、あと9日という日のことでした。

 終の住処、アルゼンチンのコルドバに埋葬されましたが、翌年フランコによって遺体はスペインに戻され、故郷カディスにある大聖堂に眠っています。