12月生まれの音楽家 ジャコモ・プッチーニ

 「せんせー、モーモーランドって何?」と生徒。「どっかの牧場じゃないの?」と筆者。「違うよ、楽譜に書いてあるんだよ」。え?

 彼が差し出す楽譜には、Mormorandoの文字。それ、モーモーランドじゃない。モルモランド、囁くようにという意味のイタリア語です。

 楽語。主にイタリア語やドイツ語で書かれる、演奏者に指示を与える言葉。これが笑いと混乱を巻き起こす。筆者の通った中学と高校には毎週、楽語の小テストがありました。先生が毎回10問の楽語を唱え、生徒は綴りと意味を書くのです。その日、「アジタート」と聞き、AGITATOと書きました。意味は英語のAgitatedと同じ。イライラして、等の意味ですが、当時の楽語の教科書には、”急き込んで”とあったのです。それを暗記したところ、脳内で起こった謎変換。”咳き込んで”と記入。答案返却時、教師に大笑いされました。

 さて、今月生まれの音楽家はイタリアの伊達男、プッチーニです。

家業は代々音楽家

 ジャコモ・アントニオ・ドメニコ・ミケーレ・セコンド・マリア・プッチーニ。これが彼のフルネーム。プッチーニ家は二代目から音楽家を家業としており、二〜五代目、つまりひいひいじいさん、ひいじいさん、じいさん、父さんのファーストネームを全て受け継いだのが、この六代目、今月の主役のプッチーニなのです。

 プッチーニは1858年の12月22日、イタリアはトスカーナ地方の北部に位置する街、ルッカで生まれました。7人きょうだいの5番目。父は教会オルガニスト兼音楽学校の校長。幼い息子に音楽教育を施しますが息子は全く興味無し。仕方なく、オルガンの上にご褒美のお金を置いて練習させたというのです。

 5歳のときに父が亡くなると、伯父がプッチーニの音楽教育を引き受けますが挫折。母は夫の弟子の中からカルロ・アンジェローニというオペラ作曲家に息子を託します。恩師の息子はやる気ゼロ。それでも真摯に向かい合ったアンジェローニ。次第に教育の効果が現れました。10歳で聖歌隊に合格、14歳でオルガニストへと成長。一方、酒場のピアニストとして働き出したこの頃に煙草を覚え、ヘビースモーカーにもなってしましました。

ピサまで歩いてオペラに開眼

 1876年、斜塔で有名なピサで、ジュゼッペ・ヴェルディのオペラ『アイーダ』が上演されると、これを聴きに32キロの道を徒歩で往復。17歳でした。後に「目の前で音楽の窓が開いたように感じた」と彼は語っています。オペラ作曲家になることを決意。まずはルッカの音楽院で4年間勉強。その後、ミラノの音楽院で3年間研鑽しました。1883年に作曲した、オペラ第一作目は『レ・ヴィッリ(妖精)』。これは1884年に初演され、大成功。順調なすべり出しに見えました。

趣味はボートと高級車

 『レ・ヴィッリ』成功の一方、苦難にも見舞われます。1884年の母の死。時を置かずに友人ジェミニアーニの妻、エルヴィーラとの不倫。彼女はプッチーニの生徒でした。友人の妻に声楽とピアノを教えていた際、恋に落ちて駆け落ち。1886年に彼女はプッチーニの息子を産みますが、約20年後にジェミニアーニが亡くなるまで結婚できませんでした。

 1888年に作曲したオペラ『エドガール』の初演は失敗したものの、1892年作曲の『マノン・レスコー』は大成功。1895年作曲の『ラ・ボエーム』、1899年作曲の『トスカ』と、飛ぶ鳥を落とす勢いでオペラを作曲。富も名誉も手に入れた彼はトスカーナのトッレ・デル・ラーゴという村に居を構え、趣味の高級車とボートに散財。常に最新の車を買い、ボートは船隊が組めるほどの数を所有していました。

ドーリア事件とノイローゼ

 1903年、オペラ『蝶々夫人』を作曲中に彼の乗った車が事故を起こしました。プッチーニは車の下敷きになり、右大腿骨骨折と窒息状態で発見されて全治8ヶ月。退院後に小間使いとして雇われたのが、16歳のドーリア・マンフレディという娘でした。プッチーニ夫妻に可愛がられましたが5年後、妻エルヴィーラがドーリアとプッチーニの仲を邪推しはじめます。嫉妬深さで有名だった妻。年を追うごとに艶めくドーリア憎しと彼女を詰問し罵倒する。夫と彼女の浮気話を近隣に吹聴する、村八分にしようと画策する。プッチーニは噂を全否定してローマに逃亡。

 可哀想なのはドーリアです。いじめ抜かれた彼女は1909年に自殺。検死の結果、身の潔白が証明され、ドーリアの家族はエルヴィーラを告訴。プッチーニは妻のために多額の示談金を払った後、別居しました。

 それでも醜聞を払拭はできず、連日新聞に書き立てられて彼自身も自殺を考えたといわれています。

哀惜の念、いつまでも

 妻と別居し、静かな生活を取り戻していたプッチーニですが、ドーリアへの憐憫の情が常に心にあったのでしょう。その後の作品にはーー例えば『蝶々夫人』、『修道女アンジェリカ』、そして『トゥーランドット』等のオペラには、若くして亡くなる健気な女性が描かれています。

 『トゥーランドット』の作曲が進んでいた1924年、以前からの喉の痛みと咳が悪化して受診。喉頭癌でした。当時最新の治療を受けるためにベルギーを訪れるも、11月28日に心臓麻痺を起こし、翌日29日に亡くなりました。65歳。現在はトッレ・デル・ラーゴの屋敷内墓所で眠っています。

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※編集部の操作ミスにより、一部作家名の表記に誤りがございました。お詫びして訂正いたします。(J Weekly編集部)