1月生まれの音楽家 アレクサンドル・スクリャービン

 年明けに、路上に転がるクリスマスツリー。アメリカの風物詩でしょうか。

 年末には、誇らしげに車の上に積まれて家に迎え入れられ、装飾を施されて贈り物まで置かれた、あのツリー。蝶よ花よと、下にも置かぬ扱いを受けたあのツリーが、年が明けた途端、一切合切はぎ取られて今や路上の身。なんという手のひら返し。マリー・アントワネットもびっくり。昔の光、いまいずこ。栄華も無き今、その身が唯一まとうのは、“身ぐるみ剥がされて捨てられました”感。所行無情という言葉が胸に浮かぶのでした。

 さて、今月生まれの音楽家はアレクサンドル・スクリャービンです。スクリャービンは1872年1月6日、ロシアのモスクワで生まれました。父は弁護士兼外交官で外国を飛び回り、ピアニストであった母はスクリャービンを出産後まもなく亡くなったため、叔母に育てられます。幼い頃から、聴いた旋律をすぐにピアノで弾くような子供でした。 1882年、10歳で自ら志願して陸軍兵学校に進学。しかし小柄で虚弱体質の彼は、訓練よりもピアノに心が惹かれます。校内で演奏を披露したところ称賛され、特別にモスクワ音楽院への通学も許可されました。

あの音楽家との巡り合い

 12歳からは、“モスクワのボス”と呼ばれたピアノ教師、ニコライ・ズヴェーレフに師事します。彼は他の教師とは一線を画す存在でした。まず、レッスン料が地域で最高額。生徒数もトップクラス。その上、名演奏家を輩出するのです。平日の日中はモスクワ音楽院で授業、放課後は出張レッスン、日曜日は自宅に来る生徒にレッスン。しかし彼を最も異色の存在にしたのは、自宅を利用した生徒の寄宿制度でした。将来、一流の演奏家になると見込まれた数名が“内弟子”としてズヴェーレフ先生と暮らしたのです。朝は先生と音楽院に登校、帰れば練習、連弾、音楽理論に外国語。“内弟子”の生活費と学費は先生が負担。もはや音楽界の相撲部屋。

 スクリャービンは日曜日にレッスンを受ける、“通い”の生徒でした。“内弟子”の中には、彼の生涯のライバルで友人となる、あの人物がいたのです。後に“6フィートのしかめっ面”と呼ばれた、20世期の大音楽家は回想します。「日曜日の朝、才能のある、痩せっぽちが来た。スクリャービンと言った。小柄な陸軍士官学校の生徒だった」。書いたのはセルゲイ・ラフマニノフでした。

 1888年、スクリャービンは正式にモスクワ音楽院に入学。ピアニストとして将来を嘱望されました。一方、作曲家として有望視されていた生徒がラフマニノフ。同学年なのにやたらと背が高い。対して、スクリャービンのあだ名は“子猫”でした。

 音楽院内ですら、卓越した才能を持つ二人は何かにつけて比較されました。即興演奏が得意だったスクリャービンですが、卒業試験では作曲科の単位取得ができず、1892年にピアノ科を次席で卒業。首席はラフマニノフだったのです。

右手の故障で作曲家

 在学中からスクリャービンを悩ませた右手首の痛み。同級生と超絶技巧曲をどちらが多く弾けるか競争したことが原因です。小さな手には負担が大きすぎました。医師の忠告により、右手が使えない間、左手の猛特訓と作曲に没頭。左手を駆使して、あたかも両手で弾いているように聴こえる「左手のコサック」というピアノ書法を編み出します。(コサックはロシアの遊牧民。草原を縦横無尽に駆け回っていた)こうして1894年に作曲されたのがピアノ曲『左手のための二つの小品op.9』。その後、右手はコンサートツアーを行うほど回復しますが、作曲にも心血を注いでいくのです。

神秘主義と共感覚

 1897年、25歳のときにピアニストのヴェーラ・イサコヴィッチと結婚。4人の子供に恵まれ、幸せな生活だったはずが、1900年頃から波乱に富んだ生活になります。

 ニーチェ哲学、神智学(神秘体験や瞑想などによって、神との合一を目指す思想)に傾倒。今風に言えば“スピリチュアル系”。 1904年には妻と別居。翌年には、生徒兼愛人、タチアナ・シュリョーツェルと家庭を築き始めます。しかし妻と離婚をしていないため、世間からの厳しい批判に晒されるのでした。タチアナとの間には3人の子供が生まれます。

 彼の音楽にも神秘主義(神や絶対的な存在と自己の融合を目指す思想)が色濃く反映されました。更に共感覚(ある一つの刺激に対して、通常の感覚だけでなく、その他の感覚まで認知する現象)を持っていると自負します。音を聞くと色が視える。ドは赤、レは黄色、ミは空色、ファは深い赤、とスクリャービンは全ての音に色を感じるのです。この共感覚を生かして、彼は色光オルガンなるものを作りました。ある音が鳴ると、その色が舞台に照らされるのです。

 この色光オルガンは1910年に完成した交響曲『プロメテ-火の詩』の初演で使われるはずでしたが、故障により実現しませんでした。

 1915年4月、自作を演奏するコンサートで喝采を浴び、また批評家にも激賞されて意気揚々のスクリャービンでしたが、2日後、異変が起こります。上唇にできた吹き出物。それが日に日に悪化。敗血症を引き起こして、4月27日に43歳で亡くなりました。

 ラフマニノフはスクリャービンが充分な資産を遺さずに亡くなったことを知り、すぐさま追悼コンサートを開始。亡き友人の作品だけを演奏し、全収益を遺族に寄贈しました。

 色と音楽を結び付け、自らの音で神秘主義を表現しようとした音楽家。生まれる時代が少し早すぎたのかもしれません。