2月生まれの音楽家 ジョアキーノ・アントニオ・ロッシーニ

 こんにちは。サンノゼピアノ教室の井出亜里です。
 2月は節分、鬼は外。忘れられない節分があります。20年前、画廊で働いていました。受付は筆者を含めて計3名。Y先輩は170cmの長身に細い体。美貌と優雅な応対で、数ある銀座の画廊、その受付嬢の中でも突出した存在でした。
 営業スタッフは、季節感のあるお菓子を手土産に顧客訪問します。2月3日には、老舗の豆菓子。その年は和菓子店が朝、画廊に届けてくれる段取りでした。
 節分の日、朝10時。開店早々、会長室から内線。秘書かと取れば、ご本人。「豆、来た?」内線を受けたY先輩「会長、おはようございます。申し訳ございません。来ておりません。着き次第すぐにお知らせ致します」。少し後、再び電話。会長「ねえ、豆は?」筆者「まだです」。他所の画廊を訪問予定とのこと。豆はまだか。内線が、もうどうにも止まらない。11時半。受話器を置いた先輩「豆、豆、豆・・・鳩か!」鬼の形相でした。鳩は無事、お昼前に豆を持って飛び立ちました。

 さて、今月生まれの音楽家はジョアキーノ・アントニオ・ロッシーニです。
 1792年2月29日、イタリアのペーザロという港町で生まれました。父は食肉工場の監督をしつつ、オペラ劇場でトランペットとホルンを演奏。母は歌手。両親は早くから、息子に音楽教育を施します。
 ロッシーニの幼少期に、父親は政治運動に関わり獄中へ。母は地方巡業の劇団に入ったため、母方の祖母が彼の面倒を見ました。
 ロッシーニは、天使のような外見とは裏腹の悪戯好きな暴れん坊。7歳のときには教会に忍び込み、ミサ用のワインを飲み干したとか。手のつけられない悪ガキでした。

仕事をするなら作曲家

 8歳のときに父親が帰還。父も母の所属する劇団に入り、旅回り。そんな両親に手紙を送る息子。内容は学校への不満。父は息子を退学させ、鍛冶屋や豚肉屋に奉公に出します。そこで8歳児は悟りました。働くより学校の方が楽だ。復学。勉学に励みました。
 10歳になると、一家は揃って父の故郷にお引越し。ロッシーニは教会の合唱隊に入り、この頃、チェンバロ、チェロ、作曲を習いました。
 1806年、14歳でボローニャの音楽学校に入学。チェロとピアノを学び、後に作曲の講義も受けています。卒業した1810年、1作目のオペラ『結婚手形』を作曲。初演は成功。18歳の快調なデビューでした。

合理主義か怠慢か

 不精で有名だったロッシーニは、いつもベッドの中で作曲。書きかけの五線紙が落ちても、面倒だから拾わない。別の五線紙にまた書き始めるのでした。
 1816年に作曲された傑作、オペラ『セビリアの理髪師』。序曲が有名ですが、実は使い回し。1815年に作曲した『イギリスの女王エリザベッタ』の序曲なのです。更に、これも元は1813年作曲の『パルミーラのアウレリアーノ』序曲の転用。一つの序曲を3つのオペラにフル活用。使えるものは再利用なのです。

大音楽家との邂逅

 1822年、30歳で結婚。お相手はオペラ歌手。その2週間後、ウィーン進出。自作の連続上演は大好評。この地の知識人や貴族から毎晩のように晩餐会に呼ばれました。この頃、ベートーヴェンにも面会。尊敬する大音楽家から言われたのは「あなたは『セビリアの理髪師』の作曲家でしょう。何度も観ました。素晴らしいオペラ・ブッファです。この分野でイタリア人に勝てるものはいません。しかし、他の音楽には手を出さない方が得策ですよ」。

 オペラ・ブッファは“喜劇オペラ”、“喜歌劇”とも訳されます。世俗的で身近な存在を題材とし、時に感傷的、叙情的要素も交えた庶民的なもの。それに対してローマ神話や英雄伝説をテーマとした悲劇的なものはオペラ・セリア、“正歌劇”と言われ、王侯貴族の音楽でした。
 自分の作品は大衆娯楽で、芸術ではないのだろうか。ロッシーニは、葛藤しつつもオペラ・ブッファ、オペラ・セリア双方を次々と発表しました。
 1829年には、英雄伝説をテーマにした壮大なオペラ『ウィリアム・テル』が完成。パリで初演されると作曲家や、評論家から称賛の嵐。これが最後のオペラになりました。

第二の人生、グルメ道

 37歳で突然オペラの作曲から身を引いた彼は言います。「昔はメロディが私を迎えにきた。今は私から探しにいかねばならない。私は怠け者だから、探すなんて億劫で、とてもできない」。それに、一生生活に困らないだけの財産もありました。
 美食に余生を捧げたい。パリを拠点に生活しながら、ヨーロッパ中を旅して各地の王族や知識人に大歓迎されました。最高の料理に舌鼓を打ち、気が向けばピアノ曲、歌曲、室内楽を作曲し、晩餐後に披露してサロンを沸かせる。しかしイタリアに残してきた妻との結婚生活は破綻。39歳で別居。 40代半ばに帰国、離婚、パリで見つけた恋人をイタリアに呼び寄せ同棲開始。彼女はパリの貴族や芸術家のお妾さんで、文豪バルザックの元恋人。ロッシーニは先妻が亡くなった翌年の1846年に恋人と再婚。54歳でした。
 63歳のときに再びパリで生活を開始。毎週土曜に自宅でサロンを開き、ピアノ曲『ロマンチックなひき肉料理』や『アンチョビ』といったコミカルな小品を作曲。ここにはフランツ・リストやジュゼッペ・ヴェルディといった一流の作曲家も顔を出して料理と音楽を味わいました。
 残念なことに、美食家のツケは健康状態の悪化として現れたのです。死因は直腸癌。1868年11月13日、パリにて76歳で亡くなりました。
 早くから名声と富を手に入れた音楽家。そして音楽界唯一の食通作曲家でした。