プロコフィエフの日本日記

 こんにちは。サンノゼピアノ教室の井出亜里です。4月生まれの音楽家、セルゲイ・プロコフィエフ。日本を訪れたヨーロッパ人作曲家、第一号。しかも2か月間日本に滞在し、日記を残しました。プロコフィエフが見た日本はどんなものだったのでしょう。

まずは経歴ご紹介

 1891年、ロシアのウクライナ地方生まれ。13歳でペテルブルグ音楽院に入学。ピアノと作曲を学び、23歳で音楽院を卒業。26歳の時にロシア革命が勃発し、アメリカへの亡命を決意。日本に2か月滞在後に渡米。ピアニスト、指揮者、作曲家として活躍後、32歳でパリへ移住。45歳で帰郷。1953年モスクワにて61歳で永眠。バレエ曲『ロメオとジュリエット』やオペラ『三つのオレンジへの恋』が有名です。

プロコフィエフがやってきた!
 亡命を決意したプロコフィエフはモスクワからシベリア鉄道でウラジオストクへ。そこから大型船、鳳山丸で日本の敦賀港に入港。更に列車で東京へ。南米経由の船で渡米する計画でしたが…。時は大正、華の帝都で書かれた日記を見ていきましょう。

1918年5月19日
 朝五時、東京着。(中略)真っ先に目に飛び込んだのは東京汽船会社の掲示。バルパライソ行きの船は3日前に出航して、次の便は2か月後まで来やしない!なんてこった!(略)

 乗り継ぎに失敗しての日本滞在。しかし音楽院時代の学友やその兄弟が日本で演奏活動をしていて、孤独を感じることは無かったようです。

6月1日
 メヤロビッチと共に京都を散策。美しい風景に溶け込むたくさんの仏閣や驚くべき河川工学事業(水路橋)がある。これぞ日本。(中略)ホテルは素晴らしい。唯一の難点は恐ろしく高い宿泊料。日本円が消えていく。(略)

 アメリカへの渡航費を除けば僅かな現金しか持たぬ音楽家。金欠です。思いつくのは演奏会。しかし…。

6月23日
 翌朝、体調もかなり回復したので、(筆者注:前日は腹痛で失神しています)少々用心して演奏会場へ。任務をこなすべく大した感情も込めずに弾く。お客はほとんどいない。(略)

 当てにしていた演奏料が入らず途方に暮れると、ある人物が接触してきました。

6月29日
 徳川侯爵と食事のため都内へ。若く、とても魅力的な日本人で、西洋音楽に入れ込んでいる。日本貴族の御曹子の立ち居振る舞いをじっくり観察する機会だと心躍ったが、侯爵は全く西洋的で、非常に人当たりがよく、率直な紳士だった。東洋の片鱗すら見ることはできなかった。

 徳川とは、紀州徳川家16代当主の徳川頼定のこと。音楽に造詣が深く、別名は『音楽の殿様』。殿がピアノソナタをご所望です。お値段やいかに?

7月13日
 金銭問題にカタが付きそうだ。ベール男爵を介して徳川とやりとりした結果、決着の見込み。作曲代に500円を請求した。どんな金持ちにだって、これはかなりの高額だろう。

 殿を相手にふっかけたプロコフィエフ。週刊朝日の値段史年表によりますと、大正9年の大卒初任給が約40円。公務員の平均年収が583円。うどん一杯8銭。白米10キロ3.7円。前述した6月23日の演奏会は一番良いS席が3円、D席50銭でした。

7月18日
 アメリカ大使館から電話がありビザ発行の許可が取れたとのこと。喜び勇んで2階に駆け上がり、ミンステル一家とスヴィルスキに報告した。(中略)ビザを発行してくれた領事館では、クックス(筆者注:旅行代理店)の代表と遭遇。彼は明後日のホノルル行きの船を手配してくれるという。手付金を払った。2日以内に日本を発っているだろう。

 ミンステル一家もスヴィルスキも日本で親しくなったロシア人です。500円は惜しいが亡命が先。落胆する徳川侯爵など「知ったことか」と日記に書き残し、7月20日に慌ただしく渡米しました。
 大正時代を垣間見ることができるプロコフィエフの日記でした。