12月生まれ 劇的に熱い音楽家

 大げさで、感情的な人をドラマクイーンと言いますが、12月生まれのベルリオーズもその一人。男性なのでドラマキングと言うべきか。それとも女装のドラッグクイーン同様、むしろ男性歓迎で行くべきか。
 ルイ・エクトール・ベルリオーズは、1803年12月11日にフランス南部の田舎町で生まれました。父は医師で家庭は裕福。教育の大半を博学な父親から受けます。幼い頃からフルート、ギター、ドラム、声楽を習いますが、息子は医者にと希望する両親、ピアノは買いません。
 17歳でパリの医科大学に合格するも、解剖の授業が嫌すぎると拒否反応。窓から脱走したという逸話もあるほどです。

 その後は医大に戻らずオペラ座に入り浸り。作曲の先生を見つけ、音楽の勉強を始めます。1年間の「音楽家になりたい!」「何を言うか、医者になれ!」という両親との応酬後、パリ音楽院に入学しました。

危険人物注意報

 1827年9月、イギリスの劇団がパリでシェイクスピア劇を上演したのです。二つの衝撃を受けた23歳のベルリオーズ。一つはシェイクスピアの偉大さに、もう一つは主演女優ハリエット・スミスソンの美しさに。自伝にこう記しています。「シェイクスピアは突然私に襲いかかって、私を粉砕してしまったのだ」。ハリエットに関しては「私は見た…了解した…感じた…生きていると言うことを」。
 要するに一目ぼれ。この日以来、彼女に連日手紙を送り、客席からは熱い視線を向け、遂には舞台と現実の見境がつかなくなって動物的に叫ぶ始末。この頃の彼はローマ賞というコンクールに作曲を応募するも予選落ち。女優にも劇場主にも「危ない自称作曲家」と一蹴されました。しかしこの失恋が後の傑作『幻想交響曲』を生み出すことになるのです。

劇的すぎるエクトール
 24歳から2年続けてローマ賞で2位を獲得。1位獲得者は奨学金でイタリア留学ができました。選考委員の寸評は「劇的すぎる」。しかしこの頃から両親に音楽の道を応援され、ピアニストのマリー・モークという恋人ができたりと充実した日々を送っています。
 26歳、声楽曲『サルダナパルの死』で切望のローマ賞1位獲得。晴れてマリーと婚約した後、ローマに旅だちました。
 数か月後、マリーの母から手紙が届きます。封を開ければ、「娘はピアノ製造で有名なプレイエル家の令息と婚約させた」とのこと。平常でも劇的な人間が非常事態にどうなるか。自伝によれば「両眼から激しい憤りの涙が溢れると同時にある決断が下った。罪深い二人の女と罪のない男一人を容赦なく殺さねばならない。そして自殺するのだ」。街中を駆けずり回ってその日のうちに銃2丁、自殺用の毒、そして女性用服一式を購入。女装して女中になりすまし、双方の屋敷に侵入する考えでした。ドラマクイーンからドラッグクイーンに進化中。
 馬車を飛ばして仇討へ。ところが馬車が急ブレーキをかけた衝撃により、一瞬で正気に返ったというのです。危うく殺人を犯すところでした。

高嶺の花が降りてきた
 おとなしくローマに戻り、留学を終えてパリに帰ると、5年前に一目ぼれした女優、ハリエットに再会します。ベルリオーズ29歳、ハリエット33歳。今や足を痛めて舞台に立てず、借金まみれの彼女と結婚。立会人はピアノの魔術師、フランツ・リストでした。

妻は消えても債務は残る


 妻の莫大な借金のため、また生まれた息子のためにも作曲、指揮、音楽評論の執筆をしながら音楽院の図書館員として金策に走るも、結婚後約10年で妻と別居。残ったのは借金。
 演奏活動を精力的に行う中ハリエットが亡くなり、半年後に第二の妻、歌手のマリー・レチオと再婚。このころの演奏活動は成功続きでした。ようやく借金を返し終え、作曲家として不動の地位も確立。経済的にも精神的にも穏やかな生活に入った途端、マリーが急死。気力が尽きて60歳で作曲の筆を折ります
 63歳、唯一の家族である息子が熱病で亡くなると半狂乱となり、心身衰えて1869年、65歳で一人寂しく息を引き取りました。
 良くも悪くも情熱的。自他共に認める劇的な音楽家でした。