10月生まれ 鍵盤の魔術師と呼ばれたピアニスト

 こんにちは。サンノゼピアノ教室の井出亜里です。
 芸術家にしばしば使われる、“○○の魔術師”という言葉があります。19世紀のヨーロッパで活動した音楽家、リストは“ピアノの魔術師”ですし、絵画の世界では“光の魔術師”フェルメール、“色の魔術師”ルノワール。“線の魔術師”、“視覚の魔術師”と出るわ出るわの大放出。芸術世界はホグワーツ。
 今月生まれの音楽家は“鍵盤の魔術師”の異名を持つピアニスト、ウラディミール・ホロヴィッツです。

生い立ちからデビューまで
 ホロヴィッツは1903年10月1日、ロシア帝国支配下のウクライナで生まれました。4人兄弟の末っ子です。両親は音楽に造詣の深いユダヤ系ロシア人。母親はピアノに秀でており、6歳の末息子にレッスンを開始しました。
 9歳の時、キエフ音楽院に入学。10歳、ある出来事が起こります。ロシアの近代音楽作曲家、スクリャビンに会うことができたのです。ホロヴィッツの演奏を聴くと、スクリャビンは彼の母親を廊下に連れ出し「息子さんには才能がある。ピアニストになるだろう」と明言しました。
 16歳で音楽院を卒業。この年、ロシア内戦により全財産を奪われ、着の身着のまま一家は外に放り出されました。家もピアノも没収され、ユダヤ人であるだけで命の危険すらあったのです。
 17歳でウクライナ国内でピアニストとしてデビューし、2年後にロシアで演奏活動。報酬はパンやバターという貧しい時代でした。
 22歳の時にロシアを去ってヨーロッパ中を演奏旅行。早くからその超絶技巧でヴィルトゥオーゾ(達人)と呼ばれました。
 24歳、ニューヨークにてデビュー。遅いテンポで進めたい指揮者を無視し、ピアノの加速でオーケストラをけん引。終楽章は猛烈な速さと技巧、大音量で弾ききりました。熱狂する聴衆。アンコールの大合唱。翌日の新聞には「鍵盤から煙が立ち上った」と書かれるほど。彼が慕うロシアの音楽家、ラフマニノフも演奏会に来ていました。テンポが速すぎるし、音は荒々しいと忠告されるも、「ここで成功するために、アメリカ人受けが良いように弾きました」と返したホロヴィッツ。巨匠は納得した後、大笑いしたそうです。

周りからみた人物像
 神経質で気難しく、情緒不安定、傲慢と言われていました。彼の付き人は「ホロヴィッツは凄まじい怒りを宿していて、何度となく癇癪を起こしては食事のテーブルをひっくり返した」と語っています。


 そうかと思えば演奏会に聴衆がどれほど来ているかこっそり見に行く小心者。また、ラフマニノフの前では、素直で従順な若手ピアニスト。常にしかめっ面の巨匠をロシアのジョークや歌手の真似で笑わせるお調子者の一面も。聴衆の前では達人技を披露して喜ばせるエンターテイナー。こうした生活で、彼の精神はすり減っていきました。

イタリア家庭は緊密だ

 30歳の時、ワンダというイタリア人女性と結婚。彼女の父は20世紀を代表する大指揮者、アルトゥーロ・トスカニーニ。ホロヴィッツの立場はドン・コルレオーネ家の婿そのものでした。家族の結束ギッチギチ。更にゴッドファーザーはホロヴィッツの上を行く癇癪持ち。オーケストラの演奏が気に入らなければ指揮棒を折り、楽譜を破ってインク瓶を投げつける。舅は畏怖の対象でした。家庭においても舅が絶対の権力者だったと述べています。イタリア語の怒号が飛び交う家。一人娘は舅の溺愛で不良に育ち、少年院。夫婦は一時別居。極限の精神状態でした。

引退、復活、2回の来日
 50歳で舞台を引退。再開したのは約12年後のこと。カーネギーホールでの、聴衆の期待を遥かに超えた演奏は歴史的な復活と呼ばれました。「あの時、人生がまた始まったんだ」と彼は言います。
 79歳で初来日。1983年当時、S席5万円、平均4万円のチケットが即日完売。しかしこの演奏は、音楽批評家の吉田秀和に「ひびの入った骨董品」と評されました。8年前に娘が自殺して以来、アルコールと抗うつ薬を多量摂取していたホロヴィッツ。彼はこの演奏を酷く気に病み、3年後に82歳で再来日。断酒断薬で臨んだ演奏は、超絶技巧こそ無いものの熟成された演奏、音色の多彩さで、吉田から「比類のない、鍵盤上の魔術師」と絶賛されたのです。
 それから3年半後の1989年、11月5日に心臓発作で亡くなります。享年86。遺体はミラノにある舅の霊廟に埋葬されてしまいました。せめて天国では静かに、そして安らかに休んでもらいたいものです。
 聴衆の期待に応えて技巧と音色を追究した鍵盤の魔術師、ホロヴィッツのお話でした。