こんにちは。サンノゼピアノ教室の井出亜里です。
歌の詞を間違えて覚えていたこと、ありませんか。日本でピアノを教えていたころ、『赤い靴』の歌詞をこんなふうに歌っていた子がいました。“ひい爺さんに連~れられて 行っちゃった~”。そこ、異人さんでは…と指摘すると、「知らなかった」。異人なんて言葉、昨今言いませんものね。
男子中学生は『故郷』をこんなふうに思っていました。“兎美味しかの山、小鮒釣り師かの川”。小鮒には「釣り師」と考えた割に、兎「追い師」ではなく、ウサギ美味し~!と味覚に走る。「追いし、釣りし」は昔の「追った、釣った」の意味だと伝えると「だよね、不味そうだもんね」と。こどもたちの覚え間違いは、結構あります。
ひい爺さんやウサギ美味し~を笑っていた筆者も実は小学生の頃、『もみじ』の歌詞をこのように覚えていました。“松をいろどる 楓(かえで)ヤツデは”。韻を踏んで、漫才師のおぼん・こぼんとか、やすし・きよし、今いくよ・くるよ的に“かえで・やつで”と歌っていたのです。楓とヤツデの形状も似ていましたし。今考えるとヤツデは紅葉しないだろうと思うのですが…。随分後になって歌詞が“楓や蔦(つた)”なのだと気づきました。
という訳で、今月の歌は『もみじ』です。
『もみじ』の生まれとその舞台
『もみじ』は明治44 年、1911 年に『尋常小学唱歌』で発表されました。1911 年から1941 年の約30 年間、現在の音楽の前身である授業は唱歌と呼ばれており、その教科書が『尋常小学唱歌』でした。1年生から6年生まであり、1冊につき20 曲の歌を収録。作詞、作曲は全曲日本人によるもので、季節の歌の他は、道徳心や愛国心を養うもの、日本の歴史や神、偉人をたたえるもの、天皇や皇后への忠義、親への孝行心を謳うものでした。
『もみじ』の作詞家は、鉄道の車窓から見た秋の風景を歌にのせました。その場所は長野県軽井沢と群馬県横川の中間。現在は無くなった駅、信越本線熊ノ平駅でした。
『もみじ』を作った名コンビ
作詞は高野辰之、作曲は岡野貞一。この日本の名曲コンビが生み出した歌の中で、『もみじ』同様に有名なものは以下の歌です。
『故郷』『朧月夜』『春が来た』『春の小川』…どれも一度は聴いたことのある、懐かしい歌。音楽の教科書にも載っていました。100 年以上も前に書かれたのに、今も心を打たれる旋律と言葉です。
高野辰之はこんな人
1876 年長野県生まれ。小学校教師を務めた後、東京帝国大学(現在の東京大学)で国文学を学び、文部省において国語教科書の編纂に携わりました。当時の小学校教育は、「教科統合」の名のもと、唱歌、国語、国史、修身(後の道徳の授業に似た内容)の教科書に共通の素材を使用しました。そのため高野も唱歌の教科書編纂に関わり、童謡の作詞を手掛けます。後年は複数の大学で教鞭を執りつつ、100 校もの校歌の作詞を行いました。1947 年に70 歳で亡くなっています。恰幅の良い名士の風貌で、性格も太っ腹。研究資料を複数の本屋でそれぞれ買い求めたときは「あなたたちのお陰で研究ができた」とその書店の主人たちを全員料亭に招いて大盤振る舞い。「こんな学者は他にいない」と店主たちに感激されたとのこと。大学での講義や、昭和天皇へのご進講でさえ、聴き手が大笑いする面白さで有名だったといいます。
岡野貞一はどんな人?
1878 年鳥取県生まれ。14 歳でキリスト教徒として洗礼を受け、その翌年から教会でオルガンを習い始めました。ここで讃美歌の影響を強く受けたといいます。その後、東京音楽大学(現在の東京藝術大学)で学び、卒業後は母校で声楽教授を務める傍ら、『尋常小学唱歌』の作曲、そして東京の本郷中央教会でオルガン演奏と聖歌隊の指導に身を投じました。1941 年に63 歳で亡くなるまで、実に42 年間教会に奉仕。160 校を超える校歌の作曲も行いました。
痩身で、性格は非常に控えめ。寡黙な人物でした。こんな逸話があります。岡野が亡くなって初めて、家族は名曲『故郷』が彼の作曲だったと知ったというのです。
その理由は、『尋常小学唱歌』は長い間、文部省が著作権を持ち、個々の作詞、作曲者を世間に公表しなかったから。しかし何よりも岡野貞一が自分の働きを周囲に―家族にすら―全く語らなかったからでした。
その旋律は、万人が口ずさみ易く優美なものであり、今も老若男女に歌い継がれるものです。
『もみじ』の美しい日本語と旋律はこの季節にぴったりの一曲。久しぶりにお聴きになってみませんか。
この曲、聴いてみませんか?
https://tinyurl.com/momiji4
この曲、弾いてみませんか?
https://tinyurl.com/momiji8
(楽譜付き)