くるみ割り人形の作曲家ってどんな人?

 こんにちは。サンノゼピアノ教室、講師の井出亜里です。
 年末の音楽と言えば日本では「第九」(ベートーヴェンの交響曲第九番。「歓喜の歌」で有名)ですが、欧米では「くるみ割り人形」。この作曲者をご存じですか?ピョートル・イリイチ・チャイコフスキーです。

ガラスのこども
 1840年、ロシアの鉱山町にチャイコフスキーは生まれました。裕福な両親、仲の良い兄弟姉妹に囲まれて育ちます。早くからピアノに親しみ、弾けば興奮して夜眠れないこともしばしば。哀れな動物を見ては泣き続ける、孤児を見ては塞ぎこむなど、感受性の強さで「ガラスのこども」「ガラスのペーチャ(ピョートルの愛称)」と呼ばれました。10歳になると法律学校に入学。寄宿舎生活を始めます。勉強に疲れては、ピアノを練習。学内でも評判の腕前でした。

エリート官僚から音楽家へ
 優秀な成績を修めて19歳で法律学校を卒業すると、法務省官僚としてエリート街道まっしぐら。一方、音楽への情熱は冷めません。21歳でペテルブルグ音楽院に入学し、仕事帰りは音楽理論を猛勉強。院長は著名なピアニスト、作曲家、指揮者のアントン・ルビンシテインでした。
 入学から2年、院長に呼び出されたチャイコフスキーを待っていたのは「中途半端な生活では中途半端な音楽しか書けない」という厳しい言葉。23歳にして遂に、安定した官僚生活を捨てる決心をします。
 退路は完全に断たれたと、作曲に懸けた2年間。卒業間近で、再び院長から呼び出しがかかりました。「弟のニコライが院長を務めるモスクワ音楽院で教えて欲しい。」ペテルブルグ音楽院を卒業と同時に、教職に就いたのは25歳。その兄と同じくピアニスト、作曲家、指揮者のニコライとは、生涯を通しての親友になります。

「白鳥の湖」の酷評と大スポンサー
 1876年に完成した「白鳥の湖」と言えば古典バレエの代表作ですが、発表当初は大不評。出演者に恵まれず、更に劇場側による勝手な手直しが原因とも言われています。落ち込む彼に、良い知らせが届きました。富豪からの資金援助です。ナジェジダ・フォン・メック夫人。鉄道王だった夫から多額の財産を相続し、ドビュッシーを娘の音楽教師として雇うほどの音楽愛好家でした。その娘と恋に落ちたドビュッシーは即、首になりましたが……。彼女の援助と友情に恵まれた14年間は、最も実り多い時期と言えるでしょう。

恐怖の結婚
 20代でオペラ歌手との大恋愛を終えた後、彼が心惹かれるのは常に男性でした。奇妙な手紙が舞い込み始めたのは、37歳の頃。熱狂的ファンの女性が、結婚を迫るのです。はじめは相手にしなかったのですが、ある日「女性は愛せないけれど、兄妹としてなら」と承諾してしまいました。
 同性愛のカモフラージュ、世間体の保持を求める新郎。一方、子供を望む28歳の新婦。チャイコフスキーは結婚後1カ月でノイローゼを発症し、2カ月半で川に飛び込み自殺未遂を起こしました。この頃の写真では、悠然と微笑む妻とやせ衰え、うつろな表情の彼を見る事が出来ます。

失意と名声
 50歳で受けた大打撃は、メック夫人からの援助打ち切りと絶縁でした。彼女の娘婿が、財産の流出を恐れて二人の仲を引き裂いた説が有力です。チャイコフスキーはすぐさま遺書を作成し、遺産の大部分を恋人兼使用人のアレクセイ・ソフロノフに贈与することに。失意の中、くるみ割り人形を作曲します。一方、カーネギーホールでのこけら落とし出演、ケンブリッジ大学からの名誉博士号授与と、名声は国境を越えました。その最中コレラに罹り急死。53歳でした。
 バレエの一幕のような、短くも劇的な人生。くるみ割り人形を聴いたら、その人生も思い出してみてください。