4月生まれの大音楽家

 こんにちは。サンノゼピアノ教室、講師の井出亜里です。
 エイプリルフールにイースター、入学式に始業式と行事が多い4月。「20世紀最大の音楽家」と言われた人物も4月生まれです。ロシアで誕生し、カリフォルニアで亡くなったラフマニノフ。波乱の人生を見てみましょう。

内気で過敏な少年時代
 1873年4月1日、セルゲイ・ラフマニノフはロシア貴族の家庭に生まれました。非凡な音楽的才能に気づいた母は息子を音楽家にと教育しますが、父は軍人にと望みます。意見の相違で夫婦は離婚。ラフマニノフは内向的な少年に育ちました。
 12歳の時、従兄の紹介で出会ったのは当代一のピアノ教師、「モスクワのボス」と呼ばれたニコライ・ズヴェーレフ。内弟子として家に寄宿しながら、ズヴェーレフが教授を勤めるモスクワ音楽院に入学し、研鑽を積み始めます。

ピアノ教師はギャンブラー
 ズヴェーレフ先生には、大勢の生徒がいました。音楽院の学生、家庭訪問先の貴族の子女、「住み込み」の内弟子が7、8名と、家にやってくる「通い」の生徒です。「通い」の中には、後の音楽家スクリャビンも。
 一番目をかけられたのは「住み込み」。ピアニストとしての才能と将来性があり、且つ従順な精鋭です。衣食住は勿論、ピアノレッスン、ドイツ語、フランス語、演奏会、演劇、オペラ鑑賞、日曜は一流音楽家との晩餐会付き。費用は全額先生負担。ラフマニノフがチャイコフスキーに激励されたのもこの晩餐会でした。
 実はズヴェーレフ先生、社交界では名うての凄腕ギャンブラー。その筋でも有名人でした。資産は内弟子に先行投資。これも一種の賭けでしょうか。

大成功と大失敗
 「あの鐘」、「例のプレリュード」、「Cシャープ」と呼ばれ、ラフマニノフ十八番のピアノ曲と言われる“前奏曲嬰ハ短調”、通称“鐘”は18歳の時の作品。熱狂的な人気を誇った一曲です。ラフマニノフは僅か40ルーブル(推定4万円)で版権を出版社に売ってしまいますが、彼の名前はこの曲とともに世界中に轟いたのです。

 ところが、その後発表した交響曲第一番は大失敗。酷評を受けて、ラフマニノフは2年以上、神経衰弱で苦しむことになりました。

カウンセリングで大逆転
 精神科医ニコライ・ダーリの治療で病から回復したラフマニノフは、次々に大作を発表します。中でも大成功を収めたのが、ピアノ協奏曲第二番。多数の映画やドラマに使われ、フィギュアスケートにも使用されたので、ご存知の方も多いでしょう。この曲は、絶望から自分を救ってくれたダーリに献呈されました。

 作曲家、ピアニスト、指揮者と名声を確立させたラフマニノフですが、ロシアは革命で暴動続き。そんな時に届いたのが北欧からの演奏会のオファーです。亡命者抑止措置の為、旅行者が国外に持ち出せるのは一人500ルーブル(推定50万円)。一切を祖国に残し、妻子だけを連れての亡命は44歳の時でした。

名実、体も「最大」に
 アメリカへ移住したのは翌年。その体格から、ボクサーに間違われることも。そう、彼は身長約2m、手は広げると27㎝!「20世紀最大の」という形容は、名声と実力だけでなく体も表していますね。

 巨体と繊細な心を持った音楽家は亡命後、作曲をほとんどしませんでした。理由は「もう何年もライ麦のささやきも、白樺のざわめきも聞いていないから」。そして教会の鐘の音も、アメリカにはなかったのでしょう。しかし、ピアニストとしては精力的に活動し、癌で亡くなる1ヵ月前まで演奏活動。ナチスに侵攻された祖国を案じ、演奏会の収益をソビエト総領事に寄付し続けました。
 終の棲家はビバリーヒルズ。故郷に帰ること無く69歳で亡くなり、ニューヨークで妻子と一緒に眠っています。