9月生まれ 乗り物マニアの作曲家

 厳めしい髭に鋭い眼光の音楽家。欧米での発音はドゥヴォゥジャーク。
 炊飯ジャー、ゴレンジャー、岡山県民「9月じゃぁ」。そんな緩めのジャーで「ドゥヴォゥジャーク」。充分通じます。

 アントニン・ドヴォルザークは1841年9月8日に現在のチェコ、当時のボヘミアの肉屋兼宿屋に産まれました。長男アントニンは音楽と蒸気機関車が大好き。その型番や機関士の名前まで記憶しました。ヴァイオリンの腕は村でも評判で、10歳の時には村のオーケストラで演奏するほど。父親の自慢の種でした。

肉屋が転じて音楽家
 その音楽的才能に気づきつつも、父親は12歳の長男を職業訓練校に送り出します。学ぶのは肉の知識にさばき方、買い付け、ドイツ語、会計学。ボヘミアはオーストリア支配下にあったため、商売にドイツ語は必須でした。
 ところが、訓練校の校長兼ドイツ語教師リーマンは音楽家。ドイツ語そっちのけで、音楽を教えます。2年間ピアノにオルガン、作曲法を学んだアントニンのドイツ語はさっぱり。父親はがっかり。今度は息子をドイツ語一本で修行に出しました。頼む相手は…教会の合唱長。案の定、アントニンの音楽的才能を見ぬいた教師はドイツ語は二の次でオルガン奏法と指揮を教えました。

肉屋をやめて音楽家
 息子のドイツ語に落胆した父は、業を煮やして自らアントニンに肉屋のイロハを叩き込みます。優しく従順な性格で、一度も父親に逆らったことのない長男は今や16歳。黙々と肉屋で働いている彼を見かねて、物申す人物が二人現れました。音楽を教えたドイツ語教師のリーマンと伯父ズデニェクです。二人の強い勧めと、伯父による学費負担でアントニンは晴れてプラハのオルガン学校(現在のプラハ音楽院)に入学、音楽家への第一歩を歩き出しました。

チェコの誇りと民族運動
 学校に入学するも五線紙も楽譜も買えず、ピアノすら借りられない苦学生。下手なドイツ語で教師たちに疎まれつつも音楽の基礎を学び、オルガニストと合唱指揮者の資格を取って12人中、2番の成績で卒業しました。
 1859年、オーストリアがイタリアとの戦争に敗れるとチェコ民族に対する圧政が緩み始めます。1861年にはチェコ語新聞の発刊、翌年にはチェコ劇場(国民劇場)完成と、民族運動が最高潮を迎えていました。この劇場の指揮者に任命されたのが「国民音楽の父」スメタナ。彼に触発され、アントニンは当時の主流であるドイツ音楽ではなくチェコ国民の音楽を作ろうと考え始めます。

大ヒットからの大躍進
 チェコのメロディとリズムで作曲を始めたアントニン。それをオーストリアの国家奨学金制度に送付したところ、目を光らせたのがブラームスです。彼の強力な推薦でアントニンは見事奨学金を手にしました。当時の彼の年収の2倍を5年間受け取る権利を得たのです。
 ブラームスから出版社も紹介され、3年後には「スラヴ舞曲第一集」を出版、チェコ民族の独立運動と相まって大ヒット。同時にアントニンも一躍有名になったのです。

 名声が高まると共に仕事も増え、作曲は勿論、世界各地への演奏旅行も目白押し。ニューヨークでは3年間、ナショナル音楽院の院長を務めます。多忙な彼の楽しみは週に2日、駅で汽車を眺め、別の2日は港で汽船を眺めること。童心に還り、汽船の名前や出航日と時刻まで覚えるほどでした。
 故郷ボヘミアに戻った後は、その自然とチェコ民族の誇りを映した曲を発表し、数かずの栄誉を受けつつ62歳で亡くなりました。
 日本でも有名な「新世界より」の“家路”は、アメリカから、故郷に向けた郷愁。今、アメリカに住む私たちにも通じるものがあるかもしれません。