歌曲の王の後援会

 こんにちは。サンノゼピアノ教室、講師の井出亜里です。
 今月生まれの音楽家は、フランツ・ペーター・シューベルト。沢山の歌を作ったために『歌曲の王』と呼ばれています。小学校の音楽室にあった肖像画、覚えていますか。眼鏡をかけた、縮れ毛の丸顔。あの音楽家です。


 1797年1月31日、シューベルトはオーストリアのウィーンで産まれました。貧乏人の子だくさんの家庭で彼は14人兄弟の12番目。(そのうち9人は夭逝)父は音楽家兼学校教師、母はコック。シューベルトも早くからヴァイオリンとピアノを習い始めました。

 内職が大物教師を連れてきた!
 11歳になると寄宿制神学校、コンヴィクトに入学。現在のウィーン国立音大の前身校です。当時は神学、音楽、一般学科を教えていました。音楽では好成績を取るものの、勉強はやる気なし。そんなエピソードが残っています。近視の彼の席はいつも教卓の真ん前。教師が目を光らせるのは教室後方。そこでシューベルトは引き出しを少し開け、詩集を置いて曲を付けていたのです。ところが作曲に熱が入り、歌ってしまいます。目前の生徒が何をしていたのか悟った先生は怒り心頭、作曲を取り上げました。休日謹慎を言い渡した挙句に父親呼び出し。数日後、今度は校長室に呼ばれたシューベルト。退学を恐れる彼に思わぬ知らせが告げられます。彼の内職騒ぎは音楽教師層まで知れ渡り「それは面白い」と同校のアントニオ・サリエリが作曲に目を通したのです。「才能有り」と判断され、週に2回無料で作曲を教えてくれることになりました。サリエリはモーツァルトのライバルとも言われ、ベートーヴェン、リスト、チェルニーを教えた当代一の作曲家、名教師でした。

兵役拒否は裏技で
 16歳になったシューベルト。当時、17歳の健康な男子は兵役につく義務がありました。戦争に行きたくない、作曲をして暮らしたい。考えた末の決断は、学校教師になること。教師だけは兵役を免れたのです。コンヴィクトを辞め、師範学校へ通うこと10か月。見事助教員の免状を取得、17歳で父親の学校に勤め始めます。しかし、教師としての熱意はゼロ。頭の中は常に新しいメロディが流れるのです。この年1年で作った歌曲は127曲。更に翌年は「魔王」「野ばら」等の名作を含めた150曲を作曲しています。歌曲の王にふさわしい名曲の数々が生まれたのでした。

極貧の彼を助けた仲間たち
 赤貧洗うが如しのシューベルトでした。聴きたい演奏会があれば家具を売って資金捻出。教員を辞職後は職無し宿無し一文無し。それでも口にするのは作曲のことばかり。そんな彼を見かねた友人たちがあるグループを結成。その名もシューベルティアーデ、後援会です。

 豊かな者は資金を援助、屋敷持ちなら一部屋提供。お金がなければ料理を持参。小銭を得たなら楽譜と五線紙プレゼント。コネ持つ者は出版を頼み、顔が広けりゃ、ベートヴェンに面会予約。暇ある者はホールを探して東奔西走、おまけに服を新調するというように一切合切の面倒をシューベルティアーデがみたのです。 友人たちに、ここまで厚く世話された作曲家は、音楽界広しといえども彼一人でしょう。
 30歳の時、最も尊敬するベートーヴェンの葬儀に出席しました。その帰りの酒場で「今、葬ってきた偉大な方のために!」と乾杯し、その後「彼の次に続く人のために!」と音頭を取ったシューベルト。友人たちは一様に不吉なものを感じたとか。皮肉にも彼自身が「続く人」となり、翌年の1828年、31歳の若さで亡くなりました。

 現在はウィーンの中央墓地で、ベートーヴェンのお墓の隣で眠っています。歌曲の王が生まれたのも、現在私たちが彼の作品を聴くことができるのも、シューベルティアーデの尽力によるところが大きいのです。