3月生まれの作曲家 ショパンの顔

 こんにちは。サンノゼピアノ教室、講師の井出亜里です。
 わたくしは悩んでいるのです。何をか、と申しますとショパンです。ショパンの顔なのです。
 皆様、顔を知らずに曲だけ聞いてその容姿を想像したらどんな姿を思い浮かべるでしょうか。普通以上に端整な顔を思い浮べるかもしれません。そうです。聴衆が若い女性なら特に。

 先日、ショパンの幻想即興曲を弾きたいと言う生徒に肖像写真を見せました。すると「カッコ良くなーい、やっぱやめようかな」。
 何ということを言うのでしょう。顔で選曲するのかと問い正しますと翌週、彼女は「学習漫画 ショパン」を持ってきました。細身の体に麗しのお顔、髪は長いブロンドです。背景はバラ。これ、リストですよ…。兎に角、これを読んでショパンを弾きたいと思った模様。10代女子にとって、作曲家も所詮顔か。顔なのか。
 漫画を読んでやる気を出すのは結構なのですが、現実の顔を知った途端に士気急降下も困る。今後、最初からその姿を生徒に知らしめるべきか否か。わたくしは今、大いに悩んでいるのです。
 さて、今月生まれの作曲家ショパン。その顔がどんなものだったのか、見ていきましょう。

幼年期
 フレデリク・フランソワ・ショパンはポーランドの首都ワルシャワから車で一時間ほどの村に生まれました。誕生日は1810年3月1日とショパン自身が書いていますが、1809年説や2月22日説もあります。洗礼日は2月22日、しかし家族は誕生日を毎年3月1日に祝っていました。
 6歳から教師についてピアノを習い始めると神童ぶりを発揮し、8歳で初演を果たします。この頃のショパンは近所の子ども達と遊び、猿の物真似で周囲を笑わせ、先生の似顔絵が抜群に上手な人気者だったそう。14歳でロシア皇帝への御前演奏。この頃には、ワルシャワで最高のピアニストとして名声を確立していました。残念ながら、この頃の肖像画は残っていません。

青年期
 16歳でワルシャワ音楽院に入学。ポーランドの民族舞踊、マズルカを取り入れた作曲で、国民の心をがっちりと鷲摑み。夏休みは国一番の貴族、ラジーヴィヴ大公に招かれます。大公の長女、エリザ姫により、スケッチが描かれました。ショパンの手紙によると「とてもよく似ているそうだ」。

 25歳、旧知の貴族であるヴォジンスキ一家と再会します。以前ピアノを教えた小さな女の子マリアは、今や美しい16歳。二人は婚約まで果たしますが、上手くはいきませんでした。この頃からショパンの体に結核のような症状が現れ始めたからです。絵心のあるマリアは25歳のショパンの肖像画を描きました。

 26歳、パリのサロンで「感じの悪い女」(ショパンの手紙より)ジョルジュ・サンドと会いました。彼女は男装の麗人、サロンで数々の浮名を流した作家です。この肉食系女子にあっては、ショパンが捕まるのも時間の問題でした。病魔に侵されたショパンをサンドは恋人、姉、母親のように世話します。その後約10年、サンドが彼の元を去るまで同居をしていました。彼女が描いた鉛筆スケッチがこちら。

晩年
 38歳でサンドと別れてから、体調は悪化の一途をたどりました。イギリスでの演奏会後は一時、階段の上り下りすら一人ではできないほど。
 なんとか客死を免れてパリに戻り、静養をしますが、死を覚悟したショパンは姉を呼び寄せました。この頃カメラが発明され、フランスの写真家ビソン撮影の写真が残っています。39歳、死の数か月前会のものでした。 

 さて、ショパンの実際像はいかがだったでしょうか。わたくしは「学習漫画ショパン」の幻想から引きずり戻された生徒が、尚も幻想即興曲を弾きたいと言ってくれることを祈るのみです。