こんにちは。サンノゼピアノ教室の井出亜里です。
いつからでしょうか、日本語に「ヴ」の字が見られるようになったのは。筆者が幼い頃は、確かに「ベートーベン」の発音で許された。伝記にも、教科書にだってそう書いてありました。それがいつの頃からか、「ベートーヴェン」の表記になり、それが常識です。え、言えないの?それって「でずにーランド」というくらい恥ずかしくない?という勢いで「ベートーヴェン」が広まりました。筆者は今でも、注意しないと「ベートーベン」と発音してしまい、ハッとして「昭和だ」と思うのです。
というわけで 12 月生まれの音楽家がこちら。伝記や肖像画でお馴染みですが、意外な逸話がたくさんあるのです。
神童目指してサバを読む
ルートヴィヒ・ファン・ベートーヴェンは 1770 年 12 月 16 日頃、ドイツのボンで生まれました。父は宮廷楽団のテノール歌手兼チェンバロ(昔の鍵盤楽器) 教師。彼は5歳の息子にチェンバロのスパルタ教育を施します。涙を流してレッスンを受けるルートヴィヒ。父は息子より 14 歳年上のアマデウス・モーツァルト、かつての神童を多分に意識していました。目指すは第二のモーツァルト。息子で一獲千金を狙います。
ところが、息子のチェンバロがデビュ―に相応しい腕前になった時、彼は7歳になっていました。モーツァルトは6歳でデビューした、ウチのせがれも負けられんと、生まれた年を詐称。それを教え込まれたため、ルートヴィヒ自身は 1772 年生まれだと生涯信じて疑わなかったのです。
しかめっ面の肖像画
音楽室のベートーヴェンの肖像画。学校の七不思議にすら入ってしまうあの怖さ。夜になると目が光るとか動くとか。
彼の別名をご存じですか?そう、“楽聖”。つい、字面から聖人君子のような印象も受けてしまいがちですが、これは突出した音楽の才能を称えたもので、決して人間性にまで及びはしないのです。こんな逸話がありました。日頃からメイドに辛辣だったベートーヴェン。掃除や食事に難癖をつけ、馬鹿だ、ババアだとこき下ろす。挙げ句の果てはお金を取ったと大騒ぎ。生卵を叩きつけられたメイドもいたというのですから穏やかではありません。二十日ともたずに一人辞め、二人辞め…。初日で辞めた人も。
肖像画を描いてもらう日の朝のこと。マカロニチーズがテーブルに出されました。これは彼の大好物。しかしなぜか美味しくない。焦げているのか、硬いのか。とにかく不味い。メイドを怒鳴りつけた勢いで画家の前に出ていき、あの形相。実にこどもっぽい一面です。
粗野と無作法はむしろ売り
みだしなみには無頓着。“ピアノの魔術師” と呼ばれたリストは幼少時に対面したベートーヴェンの姿を「ロビンソン・クルーソーのようだった」と懐古しています。 無人島で自給自足の生活をしていたような風貌だったのでしょう。それを裏付ける話があります。ある日、ボロボロの服、乱れた髪で独り言を呟きながらふらつく浮浪者をウィーンの警察が拘留。翌朝、それが大作曲家だったと判明したというのです。烈火のごとく怒り狂う様子が目に浮かびます。
小さな身体(一説には 157 ㎝)に大きな頭。ぼうぼうの髪をかきあげる癖があり、笑う様子は高い声で歯をむき出して猿のよう。貴族相手にも口を極めて批判をし、およそ上品とは言い難い。しかし、周りは「ベートーヴェンでは仕方ない」と寛容に受け入れていました。
何故か皆から慕われる
背は低く、色黒で美男子とはかけ離れた容貌。ハイドンには“モンゴルの大王”などと揶揄される容姿の上に、性格は気難しく癇癪持ち。
それでも女性と数々の恋愛エピソードが残っているのです。ピアノ曲『エリーゼの ために』を良家の娘に贈ったり、(ソプラ ノ歌手に贈った説も有り)ピアノソナタ『月 光』を貴族令嬢に献呈したり、大富豪の妻に「不滅の恋人への手紙」を情熱的に書き綴ったり。身分違いなどで実らない恋愛でしたが、恋多き人物像が垣間見えます。
友人、知人もまた、ベートーヴェンの才能を尊敬し、その人柄を愛しました。もっと良い収入を求めてウィーンを去ろうとした時でさえ、貴族が年金を支給して彼を引き留めたほどだったのです。
1827 年に 56 歳で亡くなった時は、大騒動でした。近隣の学校は臨時休校し、3 日後の葬列には2万人が参列。“歌曲の王”、シューベルトは葬列で 38 人の松明持ちの一人としてその死を深く悼みました。
偏屈で傍若無人なのになぜか慕われる。その音楽だけでなく、人間性にも多くの人が魅了されてしまう“楽聖”のエピソードでした。