こんにちは。サンノゼピアノ教室の井出亜里です。
火事と喧嘩は江戸の華。筆者の祖父母は双方江戸っ子で、割合せっかちで気短でした。勤めていた頃の祖父は毎夕6時半に会社から帰宅。ところがある時、6時前に帰ってきたのです。「あらぁ、もう帰ってきたの?」とぞんざいな祖母の言葉にカチンときたのでしょう、「早く帰ったらいけないか」。そう言って踵を返し、家を出ていきました。それから30分。定時に帰宅。駅前に戻り、孫のおやつを買ってきたのです。「もう、早くはないからな」と言いながら。
さあ、今月生まれの音楽家もかなりの短気で癇癪屋。グスタフ・マーラーです。
1860年7月7日、現在のチェコ共和国にあたるボヘミア地方のユダヤ人家庭に生まれた彼は15人きょうだいの次男。しかし8人が早世したため、結果的に長男に。父は貧しい荷馬車の馭者から酒造業を興した苦労人。母は富裕層の出ですが、片足が不自由だったために望まぬ結婚を強いられた人でした。
マーラーは3歳の頃、買ってもらったアコーディオンで軍歌や民謡200曲を覚え、演奏して町の人気者になりました。6歳の時に祖父の家で母が昔使っていたピアノを発見。日がな一日ピアノを弾く彼をみて、父は彼にレッスンを受けさせます。その進歩たるや破竹の勢い。10歳で初演奏会をこなし、15歳でウィーン音楽院に入学して作曲を学びました。
サマータイムの作曲家
優秀な成績で音楽院を卒業したマーラー。作曲家としてデビューするはずでした。ところが、18歳〜20歳にかけて作詞作曲した声楽曲『嘆きの歌』が、1881年の”ベートーベン賞”(作曲コンテスト)でまさかの落選。作曲家としての希望を砕かれ、また生活のために歌劇場の指揮者となったのです。
好んで始めたわけではなかった指揮。しかし、これが大成功。“天才”とまで言われる始末。彼のリズムに対する鋭敏さ、正確な拍子の取り方、楽器と声楽に対しての理論的知識、また常に完璧を求めたことがその理由でした。この歌劇場の仕事は激務。劇場がシーズンオフの夏休みにようやく作曲ができたマーラーには“サマータイムの作曲家”あるいは“シーズンオフの作曲家”という異名があります。
喧嘩を売るのも天才的
短気、傲慢、躁うつ病。それが周囲の彼に対する評でした。歩き方に特徴があり、“仔馬のように”足を踏み下ろすため、誰一人彼と歩調を合わせられない。会話をすれば相手の手や服を掴む。熱中すると“猪のように”足を踏み鳴らす。理想主義なので楽団員にも自分と同じレベルを要求。できないと罵詈雑言。服従という言葉を知らず、雇い主にも反抗的。摩擦、衝突を繰り返して職場を転々と変えた20代。この頃に歌曲『さすらう若者の歌』や交響曲第一番『巨人』が生まれました。
さまよえるボヘミアン
「私は三重の意味で安住の地を持たない。第一はオーストリアの中のボヘミア人であり、第二はドイツ人の中ではオーストリア人であり、第三は全世界の中でユダヤ人だからだ。どこに行こうが歓迎されない人間なのだ」。マーラーが残した言葉です。1902年、彼が42歳の時に結婚したアルマ・シンドラーは18年下で美貌の才媛。著名人キラーで、詩人、画家、建築家、作曲家、ピアニストたちと次々に浮名を流します。家庭すら、安住の場ではなかったのです。
ボヘミアンの底力
しかし、安住や安定を持たぬ彼だからこその功績がありました。それは歌劇場のサクラの排除。当時の劇場では演奏者が身内や関係者の場合、満員御礼の状態を作り、拍手喝さいで盛り上げるためにサクラを雇うことがあったのです。コネも手づるもないマーラーはウィーン歌劇場からサクラを排斥。純粋に歌劇を愛する人のみが集まる本来の場所を取り戻したのです。
第九の呪いか天命か
妻アルマとの間には2人の娘が生まれましたが、1907年に長女が4歳で亡くなると、ショックから精神不安と心臓病を発症。その後は徐々に心身が蝕まれていきました。
それでも招待に応じて渡米すること数回。1911年の渡米は高熱のまま舞台に立ったことが致命傷に。”ウィーンで死にたい“という希望もあり、帰郷し同年1911年5月18日に50歳で亡くなりました。死因は敗血症。交響曲第十番の作曲に着手し、第一楽章は完成したものの、あとは未完。
ベートーヴェンやシューベルト、ドヴォルザークがそうだったように交響曲第九番を完成させると死ぬという音楽界の“第九のジンクス”。それを怖れて実質的な交響曲第九番を『大地の歌』と名付けて発表し、「これで難は去ったよ」と妻に告げた彼でしたが、奇しくも同じ運命を辿りました。
生前は、作曲家よりも指揮者としての名声が高かったマーラーですが、「やがて私の時代が来る」という彼の言葉通り、死後その作品が更に花開いた音楽家でした。