モーツァルトは忙しい。才能ある音楽家が世に出る度に、名前が駆り出されるからです。引っ張りだこです。呼び方はさまざま。正統派風に「モーツァルトの再来」。間口が広がって時代別、「○世紀のモーツァルト」。更には大盤振る舞いの地域別、「スペインのモーツァルト」「スウェーデンのモーツァルト」「浪花のモーツァルト」。最後の一人はジャンルが違うにしても神童自身、その名が極東の島国、それもタコ焼きの街まで引っ張られるとは想像もしなかったことでしょう。
さて、今月生まれの音楽家も「モーツァルトの再来」と呼ばれた人物、カミーユ・サン=サーンスです。1835年10月9日にパリで生まれました。父は詩人、母は画家。生後3か月で父が亡くなったため、大叔母に預けられます。この女性はピアノの名手。試しに指導してみれば、大甥は3歳で作曲を始め、4歳でサロンに曲を提供する神童ぶり。5歳でベートヴェンのソナタを難なく弾きこなし、10歳のピアニストデビューで聴衆の度肝を抜きました。13歳でパリ音楽院入学。作曲とオルガンを学んで18歳でオルガニストとして独立。22歳で最高峰のオルガニストと呼ばれました。
ラテン語、ギリシャ語、文学、数学、天文学にも秀でており、文筆家としても成功。常に周囲を惹きつけそうなのに、そうではない。その理由はこちらです。
思ったことは口に出す
凡人の気持ちは理解不能。舌鋒でトドメを刺しまくるのです。
アルフレッド・コルトーは20世紀フランスを代表するピアニスト。彼が学生の頃、サン=サーンスが授業の視察にやってきました。「君の専門は?」コルトーは頬を紅潮させて「ピアノです」。返ってきたのは「へぇ、君程度の才能でもピアニストになれるものかね」。一瞬で蒼白になったコルトーでした。
弟子のガブリエル・フォーレというフランスの作曲家が病気から回復したときのこと。「お陰様で全快しました。先生に再会する日を楽しみにしています」との手紙を貰い、早速返信を書きます。しかし宛名は「不愉快な分からず屋へ」。大先生は天邪鬼。今風に言えばツンデレなのです。
ロシア生まれの作曲家、イーゴリ・ストラヴィンスキーを「非常識な音楽」を作る「楽器の使い方を知らない者」と罵り、フランスの作曲家クロード・ドビュッシーの音楽は「残虐行為」と猛攻撃。辛辣な物言いは有名でした。
思ったことは曲にも出す
その代表作に『動物の謝肉祭』というオーケストラと2台のピアノの為の曲があります。動物を題材に14の曲が集まったものです。こどもも楽しめる作品なのですが、この作品、実は先輩音楽家の作品を滑稽に編曲したものでもありました。さすがに他人の作品を揶揄したと非難される危険があるので、生前は1曲のオリジナル作品を除いては出版もせず、演奏も内輪に限っていました。公表されたのは死後のことです。
そして家族もいなくなる
結婚し、二児の父親でもあったサン=サーンス。しかし長男は2歳で自宅の窓から転落死。次男はその6週間後、肺炎により僅か6か月の命を終えました。長男の事故は妻のせいだと責める夫。結婚生活が続くはずもありません。離婚はしませんでしたが、夫婦が元に戻ることはありませんでした。この悲劇により、その後は生涯独り身を通しました。
最期は皆に見送られ……
ピアニスト、オルガニスト、作曲家、音楽批評家と精力的に活動したサン=サーンスですが、作品が時代の流れにうまく噛み合わなかったのか、あるいはその性格が災いしたのか、当時のパリでの人気や評判は芳しくありませんでした。
しかし人生の後半で膨大な作品や盛んな活動が評価され、78歳でレジオン・ドヌール勲章を受章するなど、晩年になり、功績が広く認められます。1921年にアルジェリア旅行中に86歳で亡くなると、フランスは国葬を執り行ってその死を悼みました。
生前は孤高を貫きましたが、最期は国と国民に惜しまれる、天才の名に相応しい音楽家でした。