掟破りの音楽家クロード・ドビュッシー

 こんにちは。サンノゼピアノ教室の井出亜里です。
 容姿の引け目。誰でもありますね。筆者のそれは顔のエラ。若い時ほど気に病むものの、四十過ぎたらどうでもいい。今や、ハマチのカマが出されると、仲間を食するようで気が引けるのみ。さあ今月生まれの音楽家、ドビュッシーも悩める一人。どんな人物なのでしょう。

語りたくない幼少期
 クロード・アシル・ドビュッシーは1862年8月22日にパリ近郊で生まれました。突き出たおでこを気にして、常に厚い前髪で額を隠すように。人目を避け、家に籠る内気な少年に育ちます。父は仕事が長続きせず、革命軍に入るも失敗、禁固刑。息子は幼い時から親戚をたらい回しにされ、小学校にも行けません。後年、幼少期を語ることを嫌ったのは、辛い思い出だったからでしょうか。

腹が減っても美を選ぶ
 父の姉宅に預けられた時のこと。ピアノで遊ぶ甥に伯母は驚きます。習わせてみれば目覚ましい上達。父親は、牢獄で息子自慢をしました。そこに居たのは、母親がショパンの弟子だったというムショ仲間。ドビュッシーはショパンの直弟子であるピアニスト、モーテ夫人に習う幸運に恵まれます。9歳でした。猛練習の末、パリ音楽院に10歳で合格。
 級友は彼を貴族趣味とからかいます。学校帰り、腹ペコの生徒たちはパン屋に直行。食べがいのある、大きなパンがお目当てです。一方のドビュッシーが行くのはケーキ屋で、選ぶのは小さく美しいお菓子。“意識高い系”でした。不思議なことに、10歳頃撮られた写真は前髪のない、不敵にほほ笑む一枚です。

 ピアニストを目指して優秀な成績を残すのですが、一位が取れない、気に食わないと作曲家志望に。ところが一般の音楽理論を馬鹿にして、教師にも反抗的。「傲慢不遜」「型破り」と叩かれながら従来の作曲法を打ち破った新しい響きを追求しました。

彼女にするならブルジョワで
 22歳、声楽曲『放蕩息子』でローマ大賞を受賞。2年間のローマ留学と奨学金、作品を発表する機会を獲得しました。しかし2年足らずで帰国。パリに恋人がいたからです。美貌のアマチュア声楽家、14歳年上のブルジョワ、マリー・ヴァニエ夫人。そう、彼女には夫がいました。このヴァニエ夫妻、若きドビュッシーに惜しげなく金銭、教養、愛情を与えたのですが、夫人はなんと8年間も恋人だったのです。彼女に捧げた曲は数多く、ピアノ曲『ベルガマスク組曲』もその一つ。
 22歳の肖像画は風の日も安心、鉄壁の前髪。固いガードでおでこを守る、トレードマークの髪型です。

再婚相手はセレブのソプラノ
 32歳で管弦楽曲(オーケストラが演奏する曲)『牧神の午後への前奏曲』を発表すれば傑作と大反響。一躍有名になりました。ここから人生は波乱モードに突入します。37歳でモデルのロザリー・テクシエと結婚。41歳、レジオン・ドヌール勲章を受章。この頃、生徒の母親と逃避行。妻は自殺未遂を図ります。一命を取り留めた妻とさっさと離婚、共に暮らし始めたのは先程の女性、生徒の母親であるエンマ・バルダック。ソプラノ歌手、銀行家の妻でした。二人の再婚までに約5年かかります。この間、多くの友人が去り、管弦楽曲『海』を発表するも、好評は得られませんでした。
 43歳でエンマとの娘、クロード・エンマが生まれると、“シュシュ”、キャベツちゃんと呼んで溺愛します。彼女の為に、ピアノ曲『子供の領分』『おもちゃ箱』を作曲。親馬鹿全開。おでこも全開。そんな悩みはどうでもいい。キャベツちゃんがいればパパは幸せ。

 50歳頃から、腹痛を訴えるようになります。1918年、手術の甲斐なく直腸がんにより55歳で亡くなりました。翌年、愛娘もジフテリアにより14歳で夭折します。
 その音楽も生き方も決してルールに捉われない。偏屈で独善的な印象もありますが、唯一、人間味のある“親馬鹿な父”の顔にほっとする音楽家です。