5年生の楽譜バッグから落ちた『赤毛のアン』。読めば、アンの口調が現代風。昭和に読んだアンの口調は、こんな感じでした。「おお、マリラ!いちご水とケーキでお茶会をしたのよ。でもあたしときたら、なんてことをしちまったんでしょう」。基本は乙女なのに、ふと顔を出す『よごれっちまった悲しみに』風のランボーな中原中也口調。あの口調が欲しい。紀伊國屋に走り村岡花子訳を購入。ところが、やはり口調が現代風。これはおかしい。くまなく読むと、最後の頁に“本書は1973年初版の『赤毛のアン』を基に訳を読みやすく改めました”の記載。元の村岡訳がなくなっちまった悲しみにくれました。
さて、3月生まれの音楽家はヨハン・ゼバスティアン・バッハ。「音楽の父」「大バッハ」とも呼ばれる彼は、1685年3月21日にドイツのアイゼナハで生まれました。家系図によれば、一族の祖である高祖父はファイト・バッハというパン職人。Bach姓の由来はBacken(古い綴りでBachen)「パンを焼く」という意味から、という説も。また“Bach”はドイツ語で小川を意味するため、ベートーヴェンが「彼は小川ではなく、大海だ」と言った話は有名です。弦楽器を趣味で弾いた高祖父の息子の代から音楽家になり、それが一族の家業となりました。
17世紀、エルフルトという街では「町楽士」の意味に“Bach”とという言葉を使っていたほど。8人きょうだい(内4人は早世)の末っ子だったバッハの兄3人も音楽家でした。あまり知られていない幼少期。一族の中で、彼の才能だけが特別扱いされることは無かったせいでしょうか。
固い絆の三兄弟
バッハが9歳から10歳にかけて両親が他界。彼と3歳年長の兄ヤーコプは、既に自立していた、14歳年上でオルガニストの長兄ヨハン・クリストフに引き取られます。音楽教育を長兄から本格的に受けた後、15歳で兄の元を離れてリューネブルクという街の教会付属高等学校に給費生として進学。ここではイタリア、ポーランド、フランス音楽家の楽譜に触れ、また有名なオルガニストに師事する幸運にも恵まれました。
売られた喧嘩は買い取ります
1703年4月、18歳の彼はヴァイマールにあるヨハン・エルンスト公爵の宮廷楽団に就職するもすぐ離職。アルンシュタットという地域の教会で、同年8月からオルガニスト、聖歌隊の指揮と指導者として約4年間働きました。20歳頃、かの有名なオルガン曲『トッカータとフーガBWV565』を作曲したと言われています。
その頃の武勇伝がこちら。ある日、彼が後の妻となるマリア・バルバラと歩いていると、5人の聖歌隊員に絡まれました。主犯はファゴット奏者。以前バッハに「年寄りの山羊みたいな音だ」と言われた人物です。棒で威嚇する相手にバッハは礼装用の剣を抜剣。敬虔なクリスチャンが闘うと思わなかった5人組は退散しました。売られた喧嘩はお買い上げ。曲がったことは大嫌い。
他のオルガニストが間違いだらけの演奏をすると、自分のかつらを相手の頭に投げつけて「貴様などオルガニストよりも靴直しになった方がましだ」と怒鳴り、弟子が演奏をごまかせば、かつらを引き裂いて投げつけ「詐欺師」と罵る。忍耐強い反面、妥協と不正は許さない性格でした。
全部で子供は20人
1707年、22歳のとき、1歳年上の又従姉、マリア・バルバラと結婚。13年の間に7人の子どもが生まれ、3人は夭折、長男次男が後に音楽家になるのです。23歳、ヴァイマールのヴィルヘルム・エルンスト公爵(ヨハン・エルンストの兄)の宮廷オルガ二ストとして就職。32歳のときにアンハルト=ケーテン侯レオポルトから宮廷楽長の内定を貰いました。辞表を出すバッハを引き止めるエルンスト公。聞く耳持たぬ音楽家。遂に不服従の罪で牢獄へ。4週間、牢にいても意志を曲げぬ彼に公爵も呆れて許可を出しました。ケーテンでは環境と君主に恵まれ、膨大な数の作品、しかも名作を残すのです。『ブランデンブルク協奏曲』もこの頃の作品です。
1720年、彼が35歳のときに妻が急死。翌年、16歳年下のアンナ・マグダレナと再婚。この結婚では13人の子どもが生まれ、(7人は早世)四男五男が音楽家になりました。
子だくさんの家計は厳しい。宮廷楽長の傍ら副業をし、節約もする。五線紙が勿体無いと音符はぎゅうぎゅう詰めに書く。親戚がワインを送ると言えば、関税や配達人へのチップは自分の出費だからと断る。遂には「葬式が増えれば臨時収入も増える」と葬祭用の作曲や演奏への謝礼もあてにするほど家計は火の車でした。
速筆、多産な作曲家
1723年、38歳のときにライプツィヒにある、聖トマス教会付属高等学校の音楽監督に就任します。業務内容は楽器と合唱の指導。教会で行う冠婚葬祭のための曲作りやオルガン演奏も仕事です。バッハの上には校長や教会の牧師、市参議会、聖職会議、大学当局が存在しました。バッハを十人並みの作曲家と軽視する彼らと対立しながら生徒を教育、日曜礼拝用の声楽曲をほぼ毎週作曲、上演。激務の慰めは愛する家族とコーヒー。コーヒー店で演奏会を開いて指揮を務め、珍しく世俗的な声楽曲『コーヒーカンタータ』もこの頃に作曲しています。
1736年、51歳のときに「ポーランド王兼ザクセン選帝侯宮廷作曲家」という称号を受けると、肩書きに弱い上司と上の組織は彼に対する態度を軟化。以来、公式文書には必ずこれを用いています。1750年7月28日に65歳で亡くなるまで音楽監督の地位に留まりました。
偉大な音楽家の暮らしと素顔、お楽しみいただけたでしょうか。