こんにちは。サンノゼピアノ教室の井出亜里です。今月生まれの音楽家、フェリクス・メンデルスゾーン。馴染みがない?いいえ、誰しも一度は彼の曲を耳にしたことがあるはず。
「皆さま、新郎新婦の入場です!」タタタターン!そう、あの有名な結婚行進曲の作曲家。さあ、どんな人なのでしょうか。
リビングに大学教授がやってくる
1809年2月3日。ドイツ、ハンブルクに住む裕福なユダヤ人銀行家の家にフェリクスは生まれました。母もユダヤ人で、資産家の才媛。共に高い教養と莫大な財産を持った両親は、4人の子供たちを学校へは行かせませんでした。ユダヤ人への差別と迫害から子供を守り、最高の教育を施すため。あらゆる分野の著名な教授を邸宅に呼んでは家庭教師をさせます。科目は、ギリシャ語、ラテン語、フランス語、イタリア語、英語を含めた一般学科に加えて音楽、哲学、絵画、乗馬まで。その様子は「ヨーロッパが、彼らの居間にやってくる」と称されたほどでした。
ゲーテも驚く「奇跡の子」
ピアノを習い始めたのは4歳。一番仲の良かった姉のファニー8歳も同時に習えば双方、神童と言われる上達ぶり。フェリクスは8歳で作曲の勉強も開始。文豪ゲーテは12歳のフェリクスを「この少年は奇跡という次元を超えている」と絶賛。14歳で父から息子にオーケストラが贈られます。家族が居間で楽しむために、というのですから、この家の財力は推して知るべし。
パパから貰った専用オケで作曲に邁進すれば18歳でオペラを公演。2年後、バッハの死後初めて「マタイ受難曲」を指揮して大反響。若干20歳の若者が、忘れ去られていた巨匠の作品を復活させ、その価値を世間に知らしめる偉業を達成したのです。破竹の勢いで名声はヨーロッパ中に轟きました。
死してなお迫害されるユダヤ人
28歳で結婚。5人の子供に恵まれ(三男は夭折)家庭も仕事も順風満帆。34歳でライプツィヒ音楽院を設立。親交のあった高名な音楽家が教鞭をとり、その中にはロベルト・シューマンの名もありました。体調が悪化していくのはこの頃から。頻繁な演奏旅行で過労が続き、体調を崩した際に聞いた姉ファニーの訃報が決定打となったのです。
享年38歳。生前あれほど、両親により差別と迫害から守られたものの、死後はユダヤ人音楽家の宿命、迫害を受けました。ナチスにより作品の演奏は禁止され、楽譜は焼却。記念碑は破壊されてスクラップに。彼の名のついた町、通りは全て消えました。その名声が復活したのは、戦後のこと。記念碑が再建されたのは、2008年になってからでした。
もっと知りたい人物像
乳母日傘の生い立ちと柔和な顔立ちにより、温厚なイメージがあるのですが、あだ名は「不機嫌なポーランド伯爵」。家族や親しい人以外には、上品だけれども、そっけない態度をとることも多かったとか。
舌鋒は鋭く、同時代の音楽家にも向けられます。「リストの作品は達人風にしつらえただけ」。ベルリオーズのある作品には「オーケストレーションが混乱の極み。その楽譜を触ったら手を洗わねばならない」。毒舌です。
洒落者としても名を馳せました。当時の音楽家は指揮棒の代わりに紙を巻いたもの、鉄の杖、木の棒などを使っていたのですが、フェリクスは鯨の骨に白いなめし革を巻いた指揮棒を、白手袋で振るのです。その姿は「ヨーロッパ中の指揮の模範」と語り草になりました。
ある時、オペラ作曲家のマイアベーアにそっくりだと言われると、顔色を変えて部屋を飛び出し、全く違う髪型にして戻ってきたそう。しかし、彼らは遠い従兄弟なのです。似ていることがそんなに許せなかったのか。マイアベーア、哀れです。
幸福な家庭に恵まれたフェリクス・メンデルスゾーン。彼の音楽が今も世界中の結婚式、人生の一番華やかで幸せな瞬間に演奏されるのも、なんだか頷けますね。