ムスッとしてます、ブラームス。

 こんにちは。サンノゼピアノ教室の井出亜里です。5月生まれの音楽家、ブラームス。立派なひげにひそめた眉、鋭い眼光のあの方です。
 ブラームスは、ドイツ三大Bの一人。三大不愛想?三大仏頂面?…ではなく、Bを頭文字に持つドイツの三大音楽家。すなわちバッハ、ベートーヴェン、ブラームス。それにしても揃ってムスッとしていますね。実際のところ、ブラームスってどんな人だったんでしょうか。

おそらく多忙な少年期
 ヨハネス・ブラームスは1833年5月7日、ドイツのハンブルグで生まれました。父親は市民楽団に勤める薄給のコントラバス奏者。両親と姉、弟の五人家族です。6歳でピアノを習えば、神童と騒がれる腕前でした。
 13歳になると家計は火の車。幼くとも酒場でピアノを弾いて生活を助けねばなりませんでした。

ムスッとしてない青年期
 1853年、20歳の時に撮られたブラームスの写真を見ますと、笑みをたたえた美青年。金髪碧眼、眉目秀麗。女性にもてないわけがない。
 しかし結婚は作曲を妨げると、交際は全て破局。「情熱的だけど不器用な恋人」とは元恋人の言葉です。

 さて、この年に訪れた転機はロベルト・シューマンとの出会い。ブラームスを音楽界に紹介し、その作品を激賞したシューマンはブラームスが最も尊敬する師でした。ところが、繊細な恩師は精神に異常をきたし、翌年自殺未遂を図ります。すぐさま精神病院に駆け付けたブラームス。献身的な介護を始めると共にシューマン家7人のこどもたちの世話、家事、金銭的な援助とあらゆる手助けをします。1956年にシューマンが亡くなってからもその妻クララとこどもたちへの援助は続きました。

ムスッとしてきた壮年期
 30歳目前にウィーンに移住。作曲を発表すれば高く評価され、音楽家としての地位を確立していきます。交響曲第一番は、19年の歳月を費やした作品。その理由は完璧主義を貫いたから。交響曲はその後二番、三番、四番と作曲され、特に第四番は、ブラームス自身が「自作で一番好きな曲」「最高傑作」と言う珍しいものです。生真面目で控えめ。自己批判が強いので、少しでも気に入らなければボツ。残ったものは珠玉の作品というわけです。

 曲がったことは大嫌い。社交界など真っ平ごめんという性格ですから、弟子の妻と結婚したワーグナーや社交界の華だったリストと馬が合わなかったのも頷けます。もっとも、リストの演奏中に居眠りして疎遠にされた、なんて説もあるのですが…。
 ムスッとしている写真と肖像画が多い壮年期。しかし恩師の遺族を援助する、金銭的に困窮する若い音楽家たちを匿名で助ける、弟子には叱咤しつつも就職先を探すなど、人情家のエピソードに事欠かないのも事実です。

ムス度全開の老年期
 年を経るごとに、刻まれる深い顔の皴と厳しさ。写真や肖像画はいずれも眼光の鋭いこと。
 老いを自覚し、遺書を書き、作曲も断念しようとしますが、筆を折ることができません。葛藤のあとに産まれたピアノやクラリネットの為の作品は人生の悟りに満ちた、晩年の傑作と言われています。
 ハンブルグの名誉市民と表彰され、多くの勲章を授与される一方で、自身のことには無頓着。ダブダブの粗末な服で散歩に出かければ浮浪者と間違われることも。しかし子供たちはブラームスを見つけると集まってくるのです。散歩中は飴を持っていて、それをくれると知っていたんですね。


 1896年、生涯親交のあったクララ・シューマン、恩師の妻が亡くなると、喪失感からか体調も急速に悪化。肝臓がんでした。1897年、ウィーンにて63歳で亡くなっています。
 不愛想だけれども優しさもある。逸話を読んでいると心が温かくなる。厳しそうだけど、実は…という意外性が嬉しい音楽家でした。