こんにちは。サンノゼピアノ教室の井出亜里です。2月はバレンタインデイの月。皆さんはGODIVAを何と呼びますか。英語話者は「ゴダイバ」と、まるで「お台場」のように呼びますね。横文字読むなら英語風。音楽家に至っても同じです。バッハ大先生(Bach)も英語圏ではバック。難を逃れたのはショパン(Chopin)。他人事ながら本当に良かった、チョピンにならなくて。
さて今月生まれの音楽家、ヘンデル(Georg Friedrich Händel)もゲオルク・フリートリヒ・ヘンデルと呼ばれたり、ジョージ・フレデリック・ハンドルになったり。何故なのでしょうか。
宮廷楽長のお墨付き
ヘンデルは1685年2月23日にドイツのハレという町で生まれました。幼い頃から歌が好き。しかし、医師として宮廷仕えもした父は息子を法律家にと望んでいました。我が子が音楽に興味を持つなど許しません。
ある時、父と共に宮廷に行ったヘンデルは、その歌声で宮廷楽長に才能有りと太鼓判を押されます。それが父の雇い主である公爵の耳にも入り、彼の取成しで音楽を学ぶことに。17歳で大学の法科に入学。アルバイトのオルガニストと法科の学生、二足のわらじを1年履きましたが、音楽の道に進みました。
音楽のためなら決闘も
音楽活動が盛んだった都市、ハンブルクに来たのは18歳の時。ここでヨハン・マッテゾンという親友ができます。本職は外交官。その上作家、作曲家、音楽理論家でもありました。ある日、作曲家兼歌手として舞台でオペラを歌っていたマッテゾン。ヘンデルは鍵盤楽器で伴奏です。歌い終わったマッテゾンはヘンデルをどかして弾こうとする。ヘンデル押し返す。口論になる。表に出ろ!と舞台から場外決闘へ。
マッテゾンの剣はヘンデルの胸を直撃しますが、切っ先がボタンに食い込み一命を取り留めました。驚いたのは聴衆です。オペラ鑑賞に来たはずが、あれよあれよと言う間に決闘の観客人。この後、両者は和解し親友に元通り。お騒がせな二人です。
職は惜しいが姉さん女房お断り
オルガンの大家に、ブクステフーデという人がいます。リューベック市にある、聖マリア教会のオルガニスト。この地位は北ドイツの音楽家にとって垂涎の的でした。老齢のブクステフーデは後継者探しを始めます。マッテゾンと共に採用試験に向かったヘンデル。その演奏に感嘆したブクステフーデはヘンデルに条件付きで即採用を伝えました。それは嫁ぎ遅れた彼の娘との結婚。上手い話には裏がある。ブラックな掟です。相手は10歳年上。二人して脱兎のごとくハンブルクに逃げ帰りました。この娘さん、2年後にやって来たバッハにも踵を返されているのです。その後、良い縁談に恵まれていればよいのですが…。
イギリス行ったらジョージになった
25歳の時、ドイツ北部のハノーファー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒの宮廷楽長に就任。その秋、休暇でロンドンへ行きました。オペラ『リナルド』を上演すると大成功。気をよくして翌年も訪英。アン女王にも厚遇され、ハノーファー侯に帰るよう念押しされたのにイギリスに住み着いてしまいます。宮廷楽長の仕事もほっぽらかし。
ところがアン女王が亡くなると、ゲオルク・ルートヴィヒが新国王、ジョージ1世としてイギリスに迎えられたのです。彼はアン女王の又従兄でしたから。
ヘンデルは相当焦ったようですが、国王は彼を咎めることなく、その後も良好な関係を保ちました。お詫びにヘンデルが管弦楽曲『水上の音楽』を国王に献呈し、その怒りを解いたというのは後に作られたエピソード。しかし王がこの曲を気に入っていたのは確かなようで、舟遊びの際には3回も演奏させた記録が残っています。
42歳の時にイギリスに帰化。ジョージ・フレデリック・ハンドル(George Frederick Handel)になりました。尚、選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒは国王ジョージ・ルイスになっています。ジョージで一段、ルイスで数段敷居が低くなった気がするのは筆者だけでしょうか。
56歳で壮大な合唱『ハレルヤ』の入った宗教的作品、『メサイヤ』を作曲して大好評。ハ〜レルヤッ!でお馴染みのあの曲です。晩年は白内障で作曲の筆が衰えますが、オルガン演奏は続けました。1759年、74歳で亡くなるとウェストミンスター寺院での葬儀に三千人を超える人が訪れます。呼び方は違えど、ドイツ、イギリス両国が「わが国の」と誇る大音楽家でした。