今月の歌 「うれしいひなまつり」

 こんにちは。サンノゼピアノ教室の井出亜里です。

 昔から思っていました。雛祭りの歌って暗いなと。終始湿っぽい。それに対して“たのしい”“うれしい”と歌詞が一生懸命に祭りムードを盛り上げようとするも、そもそも曲調が悲しいので笛吹けど踊らず状態。今一つ、どう歌ってよいものやらわからず、結局あやふやで終わる。

 最後は“今日はたのしいひなまつり”で終わりますが、つい、本当に?と尋ねたくなるほど。これが「うれしいひなまつり」に対する筆者の長年の疑問。歌詞と曲調の明らかな落差。どっちに合わせりゃいいものか。曲調に合わせてしんみり歌うべきか、歌詞の力で楽しさに寄り切るか。どういたしましょう、雛祭り。

作詞作曲は誰でしょう?

 作詞はサトウハチロー。1903年、東京に生まれた童謡作詞家、作家、詩人です。有名な歌詞に「ちいさい秋みつけた」や「リンゴの唄」があります。作家の佐藤愛子は異母妹。

 抒情的で繊細な詩とは裏腹の、破天荒な人物でした。小学生の頃から不良の仲間入り。中学に入るとそれは悪化し、自称“落第3回、転校8回、勘当17回”の言葉どおり、蛮行、奇行、放蕩を尽くして留置場入り30回、感化院送りになりました。

 16歳で詩人、西條八十に弟子入りして、詩作、童謡の作詞を始めます。20代後半からは小説や映画主題歌も手がけました。

 「うれしいひなまつり」は、30代で自身の娘に雛人形を買った際の詩。

 童謡、校歌、CM挿入歌、小説、エッセイ、児童文学作品を数多く残して1973年に東京で亡くなっています。享年70。

 作曲は河村光陽。1897年、福岡県生まれ。師範学校卒業後、小学校の音楽教師をしていました。27歳で東京音楽学校選科(現在の芸大大学院)で音楽理論を学び、作曲家として活動開始。1936年に発表された「うれしいひなまつり」が大ヒットし、翌年も「かもめの水兵さん」で作曲家として不動の地位を確立しました。1946年に49歳で亡くなっています。

寂しげなのは何のせい?

 お祭りの歌をこうもしんみりさせる必要は何なのかと思っていたのですが、作曲者の意図を知ると見方が変わってきます。河村光陽はそもそも「うれしいひなまつり」を箏、あるいは歌と箏での演奏用に作曲したというのです。そこで採用したのが日本の音階の一つ、都節(みやこぶし)音階(陰音階とも言われます)。日本の民謡、筝曲に多い音階です。

「さくらさくら」や“ねんね〜ん〜、ころ〜り〜よ〜”の歌い出しの「子守唄」もこの音階。

 おめでたい歌詞に寂しげな曲を付けたわけではなかったのです。河村光陽は都節音階に日本民謡の懐かしさや筝曲に相応しい奥ゆかしさを見出したのでしょう。

ちょっと怖い都市伝説

 とはいえ、やはりこどもたちは「うれしいひなまつり」を悲しい曲と思ったようで、最後の歌詞を“今日は悲しいお葬式”に替えた不謹慎な歌も流行りました。こどもたちだけではありません。海を越えたメキシコでは、ロス・パンチョスという歌手の3人組がこの曲の歌詞を替え、なんと「悲しきみなしご」という曲で大ヒット。和の心、玉砕。メヒコに届かず。大和旋律の奥ゆかしさ、静謐さは、こどもとメキシコには伝わらなかったのでした。

 そしてついに、こんな都市伝説まで出回り始めたのです。この曲はサトウハチローの亡くなった姉を悼む詩なのだ、だから哀しいメロディなのだと。“お嫁にいらした姉さまに よく似た官女の白い顔”という歌詞、そして実際にサトウハチローの実姉が結婚直前に結核で亡くなっていたという事実から推察されたものでした。白い顔、は結核で血の気のひいた肌を表わしていると、まことしやかな尾ひれまで。これに対してサトウハチローは黙して語らずを貫き、真相は闇の中です。

 さあ、いかがでしょうか。今月の歌。筆者はこれから「うれしいひなまつり」を粛々と—オリンピックで「君が代」を斉唱する金メダリストの如くに—歌おうかと思っているのです。寂しさは感じさせずに、大和撫子を気取って、です。平安時代の貴族が、子女の“あそびごと”として始めた雅びな雛祭りですからね。