2月没 ヒトとしていかがなものか、のワーグナー

 こんにちは。サンノゼピアノ教室の井出亜里です。
 20年ほど前でしょうか、「ヒトとして〜」という言い回しをよく聞きました。筆者が新卒で、ブラック企業に勤めていた時、度々上司が部下を「ヒトとしてどうなんだ!」と罵倒していましたし、近所の母親はギャン泣きする幼児に「ヒトとして、やってはいけないことがある」という旨の叱責をしていました。転職先の会社の先輩も自身の母親に「ヒトとしてどうなのか」と手紙を書いたそう。一体、どんなことを——人間失格、生まれてすみませんレベルの事をしでかしたとでも言うのでしょうか。

 今月お隠れののワーグナーは“オペラの巨匠”または“楽劇王”と呼ばれる反面、この「ヒトとして〜」の言葉がふさわしい音楽家。その破天荒なエピソードを見ていきましょう。

 ヴィルヘルム・リヒャルト・ワーグナーは1813年5月22日にドイツのライプツィヒで生まれました。洗礼を受けたのは、かつてヨハン・ゼバスチャン・バッハが勤めていた聖トマス教会です。生後半年で実父が他界。1歳の時にやってきた養父は画家兼俳優だったので、ワーグナーも幼い頃から演劇と音楽に親しみました。この養父を訪ねる友達が、カール・マリア・フォン・ウェーバー。『魔弾の射手』を作曲した音楽家です。ワーグナーはこれに感動し、暗記してピアノで演奏するほどでした。ところがピアノレッスンは受けるものの、教師の教えを聞かない問題児。きかんぼうだったのです。

 18歳でライプツィヒ大学に入学し、音楽と哲学を学ぶつもりが、ギャンブル三昧。果ては酒場に入り浸り。そんな中でも作ったピアノ曲が出版される、才能に恵まれた学生でした。

踏み倒します、借金は

 才能はあれども、金は無い。それなら借りよう、踏み倒そう、が彼の常でした。その上23歳の時に結婚した相手は舞台女優。夫婦そろって贅沢好き。26歳で膨れ上がった借金から逃れるために夜逃げ旅。ロンドンに密航をたくらむも悪天候で船が3週間洋上を漂い、これが後のオペラ『さまよえるオランダ人』の元になりました。

恩は仇で返すもの

 『さまよえるオランダ人』上演に助力したのがジャコモ・マイアベーア。裕福なユダヤ人銀行家の息子で作曲家だった彼はワーグナーへの金銭的援助も惜しみませんでした。これに味をしめたワーグナー。自身をオペラ座支配人に推薦してくれるようマイアベーアに頼み、快諾されます。しかし結局、支配人になれなかったと逆恨み。マイアベーア嫌い、ユダヤ人も銀行家も大嫌い。後年、シューマンへの手紙ではマイアベーアを「計算ずくのペテン師」呼ばわりしています。

 36歳の時に革命運動に身を投じ、反政府軍に仲間入り。その結果、国家反逆罪で指名手配のお尋ね者に。捕まれば死刑。そんな彼の窮地を助けたのが音楽界の大御所、フランツ・リストでした。偽造パスポートと資金を用意し、スイスに亡命させたのです。逃亡生活は実に9年。大赦を受けてようやく帰国したワーグナーは50歳の時に、コジマ・フォン・ビューローという26歳の女性と恋に落ちます。しかし相手が悪かった。彼女はワーグナーの作品を熱心に指揮して世の中に広めてくれた音楽家、ハンス・フォン・ビューローの妻、その上リストの次女でもあったのです。二人の恩人の顔に泥を塗ったワーグナーにリストは激怒。5年間絶縁していました。

Myお財布は国王です

 無収入にも関わらず、再び贅沢な生活で借金に追われたワーグナーに奇跡が起きたのは51歳の時。バイエルン国王ルートヴィヒ2世からの使者がやってきたのです。18歳の国王はワグネリアン。熱狂的ファンでした。招喚に応じれば借金は肩代わりする、ミュンヘンの宮廷劇場もお金も思うままに使うがよい、との夢のような御言葉。

 世にも理想的な環境で、オペラ『ニュルンベルクのマイスタージンガー』が生まれました。指揮はあのビューロー。彼は妻を奪われても尚ワーグナーの音楽に心酔していたのです。(後年、反旗を翻しますが。)初演は大成功。これから7年後に、超大作『ニーベルングの指輪』が完成。演奏に4日間、15時間を要するオペラです。ルートヴィヒ2世の招待でドイツ皇帝、ブラジル皇帝を始めとする各国の要人が集まり、大評判になりました。これはワーグナー専用に贅を尽くして建設されたバイロイト祝祭劇場で演奏されたのですが、こんな調子で国王は湯水の如く資金を使い、国の財政が傾いたとまで言われています。

 晩年のワーグナーは心臓を病みイタリアのヴェネツィアで静養しますが、1883年、2月13日に狭心症で亡くなりました。享年69。王様よりも傍若無人、人生をオペラにささげた“楽劇王”のお話でした。