7月生まれの音楽家 所持金38セントの男

こんにちは。サンノゼピアノ教室の井出亜里です。
筆者が英文科の学生だった時、英作文の講師は辛辣、厳しい、恐ろしいと噂されるイギリス人でした。授業中、学生の携帯電話が鳴るとへし折ったとか窓から投げたとか。初回の授業のこと。先生はスティーヴン・ラッセルと名を書き、前列の男子学生を指名。「私のニックネームは何か」。可哀そうに気が動転したのでしょう。学生、「…ラ、ラッシー?」室内、失笑多発。あの名犬の画像が頭に浮かび、一層可笑しい。先生は「チッッガーウ!!」と日本語で叫び、”STEEEEEVE!”と犬歯をむき出しにしたのでした。と言う訳で、今月はスティーヴと呼ばれた音楽家の話です。

黒人霊歌がお気に入り

スティーヴン・フォスターは1826年7月4日、アメリカ独立50周年記念日にペンシルヴァニアで生まれました。実業家の父ウィリアムと母エリーザの9番目の子供です。
父はヴァイオリン、姉たちはピアノを弾き、末っ子スティーヴはピアノとフルートを習います。フォスター家の黒人メイド、オリヴィア・パイスとスティーヴは度々一緒に彼女の教会に行きました。ここで聴いた黒人霊歌に幼いながらも感動したといいます。
10代になると、ドイツ人音楽教師、ヘンリー・クリーバーにピアノと作曲を学び、弟や親友と結成した合唱団のために作曲。『おおスザンナ』、『ネッド伯父さん』、『ルイジアナ美人』で路上ライブをしていました。

仕事はサボってショーに行く

両親は音楽漬けの息子を心配し、オハイオで会社を経営していた三男の所にスティーヴを送ります。ところが彼が夢中になったのは仕事ではなく、ミンストレル・ショー。顔を黒く塗って黒人に扮した白人が演じる歌とダンスの音楽劇。一番人気はクリスティーズという一座。スティーヴは聴いているだけでは飽き足らず、自分の作品を持参。『おおスザンナ』、『草競馬』はクリスティーズが歌い広めて大人気になりました。

アメリカのプロ作曲家、第一号

1848年、『おおスザンナ』の出版により100ドルの現金を手にしたスティーヴ。この一曲で出版社は数万ドルを儲けたことなど、世間知らずな彼は知る由もありません。時代はゴールドラッシュ。『おおスザンナ』はカリフォルニアに向かう人々の愛唱歌となり、アメリカ全土に広がったのです。これに自信を得た彼は全米初のプロ歌謡作曲家になりました。当時のアメリカの作曲家は音楽教師や演奏家を兼業しており、作曲一筋で生活する人が居なかったのです。
1850年、24歳の時に開業医の娘、ジェーン・マクダウェルと結婚。後に作曲された『金髪のジェニー』は妻に捧げられた曲です。

実名出して黒人生活、歌にする

1851年、『スワニー河』を作曲。3年間で13万部も楽譜が売れたこの名曲を、彼はわずか15ドルでクリスティーズの座長、エドウィン・クリスティに売り渡してしまいます。黒人歌作曲家として実名を出すことを躊躇したせいでした。
後にスティーヴはクリスティに、返金するので作曲者名は自分に戻してくれと手紙を送ります。「…世間の黒人差別ゆえ、黒人歌作曲者として実名を出せませんでした。しかし今は何の怖れも恥も感じずに自分の曲に自分の名をつけたい。最高の黒人歌作曲家として世に認められたい…」。懇願しても断られ、生前、この願いが叶う事はありませんでした。『スワニー河』に彼の名が戻ったのは死後15年経過した頃です。
黒人を嘲笑するミンストレルが多い中、フォスターは黒人の苦境や悲哀を歌にする姿勢を崩しませんでした。

妻子もお金も去る最期

1860年、『オールド・ブラック・ジョー』を発表。妻の実家に永年仕えていた黒人の召使い、ジョーへの追悼歌です。生前に「いつか君のために歌を作るよ」と言いながら、果たせなかった約束でした。

この頃、スティーヴは約200曲にも及ぶ全ての歌の版権を売り払っても生活に困るようになっていました。妻子は去り、アルコール中毒と結核に苛まれます。

1864年、ホテルの一室でメイドが発見したのは頭から大量出血、転倒した男。熱でふらつき、洗面台の陶器に頭を打ち付けたスティーヴでした。所持金38セント。3日後死亡。享年37歳。あまりにも寂しい最期でしたが、それまで一部の層にしか親しまれなかった黒人歌を万人が口ずさむ歌に押し上げた功績は“アメリカ民謡の父”に相応しいものでした。

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