こんにちは。サンノゼピアノ教室の井出亜里です。
花粉症が辛い季節。レッスンでくしゃみをした6歳の男の子がいました。曰く、「ぼく、エナジーだからさ」。筆者(エナジー?いやいや、それは多分…)「アレジーじゃない?」。するとレッスン待ちの高校生が「質問です。哀しい曲を何と言う?」筆者「エレジー!」高校生「正解!」生徒二人は拍手。教師は一礼。謎の達成感を味わいました。
さて、チェロとピアノのための『エレジー』でも知られる今月生まれの音楽家、フォーレ。“フランス音楽の立役者”の異名を持つ人です。
生まれから家庭の縁が薄い人
ガブリエル・フォーレは1845年5月12日に南フランスで生まれました。小学校教師の父と田舎貴族の娘だった母の末っ子です。上には4人の兄と1人の姉が居ました。しかし、生まれてすぐに乳母に預けられ、更に9歳から宗教音楽学校(厳格な道徳教育を行い、教会に関わる音楽家を養成した)の寄宿生となったたため、肉親と縁の薄い幼少時代でした。
音楽界、滅多にいない好人物
フォーレが16歳の時、宗教音楽学校にピアノ教師としてやってきた10歳年上のカミーユ・サン=サーンスに出会います。彼はオペラ『サムソンとデリラ』や室内楽組曲『動物の謝肉祭』で知られる作曲家、ピアニスト。何事においても完璧を貫く彼は後年、フランス音楽界の重鎮的存在になるのですが、その欠点は意地悪なこと。辛辣な物言い、人を見下した態度、他の作曲家の作品を皮肉った曲で、多くの音楽家に敬遠されました。ところが、フォーレはこの気難しいサン=サーンスと生涯を通した親友になるのです。
フォーレの嫌った言葉は“対立”、“劇的効果”、“名人芸”。信念は「何事にも不平を言わないこと」。なんとなく彼の性格をうかがい知ることが出来るでしょう。そんな彼に対してサン=サーンスからの一言がこちら。「君はあらゆる才能を持っているが、芸術家にとって絶対に必要な事が一つ欠けている。…野心だよ」。
オバサマの寵愛受けてアイドルに
1865年、20歳で宗教音楽学校を卒業すると同時に教会のオルガニストになったフォーレ。生活のため、この仕事を30年続けるものの、彼の心が一番安らぐ場所はパリのサロンでした。富裕層や貴族の夫人が自宅に芸術家や文学者を集めて演奏と談話を楽しむのです。若く、礼儀正しい音楽家。しかも宗教音楽学校を卒業したばかりで女性慣れしていないフォーレは、貴婦人たちの母性本能を直撃。瞬く間にマダムのアイドルとなり、ますますサロンに入り浸り。“サロンの音楽家”と揶揄されるようになりました。
1883年、38歳でマリー・フレミエという女性と結婚。二児を授かるも、夫婦仲は次第に冷めたものになっていきます。
1885年から1887年にかけて、相次いで父母を亡くしたフォーレは1888年に『レクイエム』を発表しました。これはクラシック音楽界に数多くあるレクイエムの中でも傑作と言われています。
40代後半で出会ったのがソプラノ歌手で、銀行家の妻であるエンマ・バルダック。人目を引く艶やかな美貌と高い知性、優雅な物腰を持つ社交界の華。その上フォーレの音楽にも深い理解を示しました。二人の間にはエレーヌという女の子が生まれます。この子をドリーと呼んで、彼女の誕生日が来る度に、フォーレは1曲づつピアノ連弾組曲『ドリー』をプレゼント。しかし、自分が父親だということは伏せていました。エンマはその後、作曲家のクロード・ドビュッシーと恋に落ち、クロード=エンマ、愛称シュシュ(フランス語の意味はキャベツちゃん)を出産。
エレーヌとクロード=エンマは同じ屋根の下、しかも一時は同じ部屋で暮らしていたこともあったのです。
難聴を隠して音楽院長に
1896年、51才でパリ音楽院の教授に就任。弟子にはバレエ曲『ボレロ』で有名なモーリス・ラヴェルがいます。フォーレが安定した収入を手にしたのもこの頃から。しかし数年後、音楽家にとって最大の悲劇に見舞われました。それが難聴。しかも、ただ聞こえにくいだけではなく、音がひずむという最悪なもの。それをひた隠しにして1905年、60才で音楽院の院長に。封建的な学校制度を改革し、保守的な教授陣からは大批判、進歩的な学生からは絶大な信頼を得ました。
晩年は難聴が周囲に知られることになり、音楽院を引退。動脈硬化による手足の麻痺と闘いながら、1924年11月4日に肺炎で亡くなりました。享年79。この世界には珍しく、控えめで欲のない音楽家でした。
この曲、聴いてみませんか?
フォーレ作曲 ドリー組曲より『子守唄』