面倒見の良いモテ男

 こんにちは。サンノゼピアノ教室の井出亜里です。
 10月生まれの作曲家、フランツ・リスト。有名なのはその美貌と超絶技巧。容姿端麗で「ピアノの魔術師」と謳われた一流ピアニスト・作曲家を、女性が放っておくはずがありません。華やかな恋愛遍歴で名を馳せ、また社交界のアイドルとして、いつも話題の中心にいた人物でした。
 しかし今回は、彼の意外な一面、世話好きな人情家としての顔を取り上げましょう。

ベドジフ・スメタナ×リスト

 1848年、生活苦に喘いでいたチェコの音楽家、スメタナはリストに手紙を書きました。自作のピアノ曲「6つの性格的な小品」の献呈を受けてもらい、出版社への紹介、更に音楽学校立ち上げへの助言と資金協力を頼んだのです。
 見ず知らずの24歳の作曲家に対して、37歳のリストは真摯に返信。資金協力こそ出来ないが、音楽学校設立への助言と激励をし、スメタナのピアノ曲の献呈を受け、且つ出版社を見つけると約束したのです。親交を深めて以来、リストは度々この音楽学校とスメタナの家を訪れ、ベートーヴェン、ショパン、シューマンの曲を演奏しました。音楽学校も軌道に乗り、生活を安定させたスメタナはリストに生涯感謝したと言われています。

エドヴァルド・グリーグ×リスト

 1870年、27歳のグリーグはピアノ協奏曲を持ってローマ滞在中のリストを訪ねました。59歳のリストがこのノルウェイ音楽家のピアノ協奏曲を聴いて「これぞ北欧だ!」と叫んだ話は有名です。その後、リストは若き音楽家をこう激励しました。
「このまま進みなさい。私が証人です。何もびくびくすることはありません」武川寛海「名曲意外史」より
 グリーグはこの言葉に感激し、両親にリストの言葉を手紙で伝えたほど。大きな自信を得た彼はノルウェイ帰国後、北欧の民族的旋律を作品に取り入れ、国民的作曲家になるのです。

アレクサンドル・ボロディン×リスト

 1877年、44歳のボロディンはワイマールのリストを訪問しました。もとはロシアの医師、科学者、大学教授のボロディンです。しかし作曲の自信は今一つ。完成した交響曲第一番と二番を持って、66歳の大御所にご意見伺いに参ります。大御所はボロディンと交響曲を連弾し、こう言いました。
 「たとえあなたの作品が演奏されないとしても、出版されないとしても、共感を受けなくても、仕事をしてください。私を信じてください—あなたの作品は自分で『栄誉ある道』を切り開きます。あなたには巨大な独自の才能があるのですから、誰の言うことにも耳を貸さないで、自分のやり方で作曲してください」ゾーリナ/佐藤靖彦訳「ボロディン・その作品と生涯」より
 この言葉に、作曲家としては経験の浅いボロディンが、どんなに勇気づけられたことでしょう。また、リストはボロディンの交響曲を自身で各地に紹介し、この新しい音楽家の名を精力的にロシアの外へと広めていったのでした。

村の演奏家×リスト
 ある村に初めて訪れたリスト。演奏会のチラシを目にします。そこには演奏者の名前と「リストの弟子」の謳い文句。はて、こんな所に自分の弟子が?会場を訪ねれば、見ず知らずの演奏者です。彼女は涙ながらに集客のため弟子を騙ってしまったと白状しました。

 リストは彼女に演奏会の曲を弾かせて、いくつか指示を出した後「今日からあなたも私の弟子です」と語り、演奏会では聴衆に弟子の演奏会に来てくれた礼まで述べたというのです。
 この逸話は日本の小学道徳の教科書に載ったほど広く伝わるものですが、演奏者の名前や地名に諸説あり、信ぴょう性に欠ける感も否めません。しかし、上記の作曲家たちとの逸話は真実。後進に対する面倒見の良さがこの話を生んだのかもしれませんね。社交界のアイドルの意外な一面、楽しんでいただけたでしょうか?